若き水墨画家でもある著者が、水墨画の世界を描き切ったデビュー作をご紹介します。今年10月、横浜流星主演で実写映画化されます。

 物語 17歳の時に交通事故で両親を亡くした「僕」。それから時間は止まってしまい、頭の中にある空白の部屋に自分の心を閉じ込めたまま、機械的に日常を生きている。ある時、大学の友人古前君の紹介で「美術展の飾り付けの手伝い」というアルバイトをすることになった。軽い気持ちで現場に行くと、待っていたのは体育会系学生でなければ太刀打ちできないような力仕事。動員されたのは文科系学生ばかりで、休憩時間までに一人消え二人消え、気が付くと「僕」だけが残されていた。主催者側の西村さんが頭を抱える間、「僕」は迅速に古前君に連絡、体育会系の学生30人を手配させた。喜んだ西村さんが弁当を提供してくれ、控室で出会った老人が「僕」の運命を変える。テレビ等で全国的に知られる水墨画の大家、湖山が言葉を交わしただけで「僕」の素質を見抜き、水墨画の世界に招き入れたのだ。その展示場で「僕」の心を奪った水墨画のバラの絵。黒一色なのに、鮮やかな赤が「僕」の目には見えたのだ。情熱と繊細さを湛えたその絵の作者は湖山の孫娘、千瑛(ちあき)。その出会いが「僕」の心を大きく揺さぶり、変えていく…。

 文化展などで目にする機会も多い水墨画ですが、これほど詳しく書かれた、その真髄に迫るほどの内容の文章を読んだことはありませんでした。著者も、主人公のように壮絶な体験をした繊細な人なのかなと思ったら、「自分自身は友人の古前君に近い」とのことで、確かにネットで著者の写真を見てみると、古前君のイメージ通り、骨太な印象の笑顔の写真でした。

 読みながら、何度となく頭に浮かんできたのは「神は細部に宿る」という、フランスの建築家が残したといわれる言葉。私は絵や工芸品を見るのも音楽を聴くのも大好きですが、自分でやるのはどちらもさっぱり。しかしこれを読んでいると、筆を執り、微細な線を白い紙の上に引いていく時の充実感、高揚感が自分のもののように感じられます。水墨画家としての追体験ができる、まさにバーチャル小説といっていいほどの臨場感。

 著者にはこれがデビュー作なのですが、メフィスト賞受賞作と知って、エンターテイメント系の賞という印象があったので意外に思いました。しかし伝統文化の世界をつぶさに描きながら、登場人物の若さ、主人公の陥った困難な境遇とそこからの脱出に至るドラマは起伏たっぷりの、読者を引き込むストーリー。自 タイトルにもなっている言葉は、あらゆる芸術分野に通じる、創作の原点かもしれないと思います。描線や色は画家そのものであり、綴られる言葉は詩人や作家そのものであり、メロディーは作曲者そのものであるように。(里)