新たな苦難の始まり

 日本が米国、中国と戦争状態にあった当時、朝鮮半島には内地から移ってきた日本人が約70万人住んでいた。朝鮮全体の人口に占める割合はわずか3%ほどだったが、宗主国たる日本人が社会のイニシアチブを握り、対して元々の朝鮮の人たちは傍流の存在だった。1945年(昭和20)8月15日、日本が戦争に敗れ、朝鮮は独立を回復。35年にわたる日本による統治は終わりを告げたが、約1週間後には北からソ連軍が平壌に入り、戦勝国の米ソの協議の結果、北緯38度線で南北に分割して占領することが決まり、3年後には北が朝鮮民主主義人民共和国、南が大韓民国の分断国家が成立した。

 その混乱のなか、日本人と朝鮮の人たちとの関係は逆転し、日本人は土地や家、財産を残したまま半島から出て行かなくてはならなくなった。両親が安住の地と決めて移り住み、朝鮮で生まれた大津妙子さんにとっては洪城こそが生まれ故郷だったが、行くあてもないまま、家族で日本へ行くことになり、新たな苦難の始まりとなった。

 日本人が多く住んでいた街では、朝鮮の人たちが連日、集団で地域を練り歩いた。玄関にわざとぶつかり、大きな音を立て、「マンセー(万歳)、マンセー(万歳)」と叫び、日本人は家の中で集団が通り過ぎるまで息をひそめていた。妙子さんらが暮らしていた洪城でも、保安隊と名乗る民間の朝鮮人集団が警察を占拠し、日本人の家への不法侵入、略奪、暴行を繰り返した。公職を多く引き受けていた人の中には、問答無用で身柄を拘束された人もいた。

 元警察官でさまざまな公職に就いていた妙子さんの父寛正さんも警察に連行された。一家は10月下旬に釜山から船で博多へ行くことに決まったが、数日前になっても寛正さんは釈放されない。母トシさんが面会に行くと、「俺はいいから、おまえらだけで先に行け」といわれ、妙子さんはトシさん、兄の昭夫さん、妹の志津枝さんの4人で引揚船に乗ることになった。

 しかし、博多に着いたとしても、日本で頼りにできる親類は誰もいない。仮に親類が見つかっても、家族4人で押しかけては迷惑に違いない。「どうしよう…」と不安で胸が押しつぶされそうになったとき、家に下宿していた先生が「それなら皆さんで和歌山の僕の家へ来てください」と申し出てくれた。朝鮮で世話になった恩返しとして、少し狭いが、実家の離れを提供できるはずだという。捨てる神あれば拾う神あり。妙子さんら家族4人は、寛正さんを残し、先生と一緒に和歌山を目指すことになった。そしていよいよ出発の前日、進駐軍の幹部の手で救出された父が帰ってきた。

 10月25日の朝、家の前で日本人が運ばれるトラックを待っているとき、自分たちの家に朝鮮の人たちが勝手に上がり込み、次々と物を盗み出していくのを見た。「せめて(私たちが)ここを出たあとにすればいいものを…」。妙子さんは悔しさで涙が出そうになるのをこらえた。その後も港の検疫所で恥辱の身体検査を受け、白人の手荷物検査員は欲しい物があれば黙って取り上げた。

 家族はその日に船に乗るつもりだったが、体が弱いトシさんと志津枝さんがひどく疲れていたため、予定を変更して旅館に泊まった。宿には風呂がなく、寛正さんは近くの銭湯へ出かけたが、着ていた服も下着も全部盗まれてしまい、たまたま脱衣場にいた親切な軍人にシャツとズボンを借りて戻ってきた。

 日本へ着いてからも緊張の連続だったが、博多を出た汽車が大阪へ向かう途中、眠りから覚めた妙子さんは窓の外の景色を見て、不思議な感覚に陥った。どこを見ても色がなく、白と黒のモノトーンの街が広がっており、「墨絵みたい…」とつぶやいたのを覚えている。そこは原爆投下から2カ月近くたった焼け野原の広島市街だった。

御坊へ来ても辛く悲しみの連続

 大津さん一家5人は先生とともに和歌山へ到着した。全員が体の前後にリュック、両手に大きなかばんを持って、和歌山市駅から東和歌山駅(現和歌山駅)まで、空襲の焼け跡が生々しい線路わきをとぼとぼ歩いた。御坊からは臨港(紀州鉄道)を乗り継ぎ、松原通りの保田屋旅館に泊まろうとしたが満杯。東町にあった真妻屋という旅館に問い合わせたところ、客室ではないが、使っていない離れを貸してくれた。

 10日ほど滞在し、先生から連絡を受け、家族で暮らす家(離れ)に移った。14歳の妙子さんにとっては初めての日本、田園地帯が広がる野口村ののどかな景色はやさしく自分を迎えてくれたが、両親と兄にとってはそれどころではなかった。

 母トシさんはとうとう寝たきりとなってしまい、父寛正さんと兄昭夫さんは仕事をさがしたが、朝鮮から来た〝よそ者〟を雇ってくれるところはなかった。食べるものもなく、慣れない土地の冬がようやく終わろうという3月初旬、トシさんが亡くなった。享年50。朝鮮では威厳に満ちていた寛正さんだったが、日本へ戻ってからはすっかりしょぼくれてしまい、妻の亡き骸のそばで一家心中が頭をよぎった。

 野口村へ来て約半年が過ぎたころ、家族4人は事情があって先生宅の離れを出ることになり、近くの瓦屋さんの離れに移った。そこで寛正さんと昭夫さんは、瓦を焼くための薪集めの仕事を得た。毎朝、おかゆ入りの飯ごうを持って山へ行き、持ち帰ってきた木を割って薪を作った。1カ月の報酬は1人につき米1斗(10升=約15㌔)。国の建材補助を受けて自分たちの手で小さな家を建て、ようやく生活が落ち着き始めた矢先の7月、今度は末っ子の志津枝さんが亡くなった。まだ13歳だった。

 その後、昭夫さんは農協関係の仕事に就き、誘われて入った野球の社会人チームが全国規模の大会に出場した。甲子園で行われた試合は敗れたものの、強肩強打の捕手として躍動した昭夫さんはプロのスカウトの目に留まった。成績や故障で浮き沈みが激しいプロ野球選手になるか、悩みに悩んだ結果、プロの誘いを断った。

 大阪に出て運送関係の仕事を始めた昭夫さんは1953年(昭和28)の水害後、27歳で夢だった自分のトラック(木炭車)を買って御坊へ戻ってきた。毎日、朝早くから自転車で日高川を越えて大浜通りの駐車場へ行き、一日中トラックを運転したあと、自分で整備・点検をして、また自転車で家に帰ってくるのはいつも夜中。「これではさすがに体がもたないだろう」となり、家族3人で相談のうえ、駐車場に近い松原通りの空き家を借りて引っ越した。

 このころ、妙子さんは小学校の先生になっていた。妙子さんと昭夫さんが働き、炊事、洗濯などは寛正さんが担当。新しい家で3人の生活が始まって約2カ月後、昭夫さんが交通事故で亡くなった。仕事で田辺の山奥の道をトラックで走っていたとき、狭いカーブで路肩が崩れ、100㍍ほど下に落ちた。助手席の仲間は奇跡的に軽傷で、瀕死の昭夫さんを担いで道まで上がったが、昭夫さんは搬送先の病院で死亡が確認された。

 妙子さんは家族7人のうち兄2人が戦争の犠牲となり、戦後は故郷を追われ、日本で母と妹が相次いで病死、頼りだった3番目の兄も不慮の事故で亡くなった。寛正さんは昭夫さんの死後、やり場のない怒りや悲しみを妙子さんにぶつけるようになった。妙子さん自身も20代で胸の病気を患い、長期の入院を二度も経験した。

 朝鮮で生まれ育ち、終戦を機に御坊に移り住んで78年。引っ越すたびに家族を失う苦難のなか、皮肉にも母が一番嫌がっていた教員となった。生まれ育った環境、価値観の違いから、学校の友達や職場の同僚、上司とぶつかることもあったが、教師としてはどんな困難に直面しても逃げることなく受け止め、信念と情熱を持って子どもたち、保護者と向き合った。

 洪城では終戦になったとたん、周りにいた朝鮮の人たちの変わりように驚き、深く傷ついた。「日本人と親しかった人たちが離れ、日本人と仲よくする朝鮮の人は攻撃され、亡くなった人もたくさんいました」。もちろん、朝鮮の人たちがすべてそうだったわけではなく、「私の家で働いてくれていたオモニ(お母さん)は、私たちと一緒に日本へ行き、あなたたちの生活が落ち着くまでお手伝いするよといってくれました」と振り返る。

 そんな妙子さんは、現在も続く日韓の政治的な対立には「正直、複雑な気持ちになる」が、両国の平和のために、歴史認識や価値観の違いを互いに認め、理解・尊重し合える日がくることを願ってやまない。