開戦半年で形勢逆転

 日本は1941年(昭和16)9月4日の御前会議において帝国国策遂行要領を決定した。近衛首相は自らルーズベルト大統領に会談を求めるも実現に至らず、米国が求める中国からの撤兵をめぐって閣内の意見が対立。マスコミは経済制裁レベルを引き上げる米国とそれに同調する英国、中国、オランダの頭文字をとって「ABCD包囲網」とし、その不当性を書きつらね、国民の敵愾心をあおった。近衛内閣は沸き上がる世論と軍、議会の強硬論を抑えきれず、10月16日に総辞職した。

 新たに誕生した東条英機内閣は、甲と乙の二段構えの譲歩案を作成した。野村駐米大使は11月7日に甲案、それに回答がないことを受けて20日に最終の乙案を提示し、ハル国務長官は26日、米国側回答の「合衆国及日本国間協定ノ基礎概略」、いわゆるハル・ノートを野村、来栖三郎両大使に手渡した。

 その内容は、▽一切の国家の領土保全および主権の不可侵▽他の諸国の国内問題に対する不干渉▽通商上の機会および待遇の平等――などのハル4原則を認め、さらに仏印と中国からの全面撤兵、重慶政府(蒋介石政権)だけの承認、日独伊三国同盟の無効を要求。日中戦争を有利に進めながら、米国にみすみす中国の市場を譲らねばならなくなる日本としては、まったく了解できる話ではなかった。

 このとき、野村、来栖、ハルの会談が行われた国務省には大勢の日本の記者が詰めかけていた。終了後、具体的な文書の内容は明かされず、野村、来栖の両大使も質問にはいっさい答えなかったが、2人ともすこぶる上機嫌だったという。しかし、実際の文書の内容は日本の主張がまったく認められておらず、日本はこれを最後通牒と受け取り、交渉は決裂、開戦やむなしに至った。

 1941年(昭和16)12月8日未明、山本五十六海軍大将率いる連合艦隊が、ハワイのオアフ島真珠湾に集結していた太平洋艦隊と基地を攻撃した。攻撃は宣戦布告と同時に行う予定だったが、米国側に宣戦布告が届いたのは攻撃開始の1時間後だった。その理由ははっきりしないが、米国もすぐさま宣戦を布告し、ついに日米が戦争に突入した。

真珠湾攻撃による日米開戦を大々的に報じる読売新聞(1941年12月9日付)

 真珠湾の双方の損害は、日本の特殊潜航艇4隻沈没、1隻座礁、航空機損失29機、戦死64人に対し、米国は戦艦が4隻沈没、1隻座礁、3隻損傷のほか、軽巡洋艦3隻損傷、駆逐艦3隻座礁、航空機188機損失、戦死者2334人。この奇襲による開戦、日本大勝利の結果は大本営陸海軍部の発表として、読売新聞は「暴戻(ぼうれい=乱暴者の意)米英に対して宣戦布告」、朝日新聞は「布哇(ハワイ)米艦隊航空兵力を痛爆」などの見出しで大々的に報じ、国民は喜びと興奮で沸き返った。

 日本は真珠湾攻撃と同時にマレー半島上陸作戦も成功させ、2日後の10日にはマレー沖開戦で英国海軍を撃破。翌年(昭和17)春までに香港、マニラ、シンガポールを占領するなど連戦連勝を続けていたが、6月の日米の主力艦隊が激突したミッドウェー海戦で日本は大敗北。以降、太平洋をめぐる戦局は潮目が変わり、日本は防戦一方へと追いやられていくが、大本営は新聞、ラジオを通じ、戦果と損害を改ざんするようになっていった。

実態隠し続けた大本営

 戦時下、天皇の軍全体の指揮、統率を補佐する統帥機関だった大本営は、陸海軍の戦況を国民に発表する役割も担っていた。陸軍は大本営陸軍部の報道部宣伝課に内国新聞発表という係を設け、陸軍と海軍は開戦から1カ月はそれぞれに名前を出して発表していたが、1942年(昭和17)1月15日からはすべて「大本営発表」となった。

 真珠湾攻撃後に出された大本営陸海軍部発表第1号は、日本側の戦果を「戦艦2隻轟沈、戦艦2隻大破、巡洋艦4隻大破」「ホノルル沖で潜水艦が空母1隻を撃沈せるものの如きも未だ確実ならず」と公表。これに対し、米国は自国の損害を「戦艦5隻沈没あるいは擱座、巡洋艦1隻と駆逐艦3隻大破、戦艦1隻中破」などと発表した。

 日本は空母を沈没させた件は未確認であるとのことわりを入れ、戦果も米側発表より控えめで、航空写真や実際の兵士の証言を検証のうえ作成された発表内容はほぼ正確だった。しかし、開戦から約半年後の1942年6月、ミッドウェー海戦の日本の敗北以降、大本営は戦いの事実を隠蔽、実態とは異なる戦果、損害を発表するようになった。

 ミッドウェーで日本は、空母4隻、戦艦・重巡洋艦各2隻、軽巡洋艦1隻、駆逐艦12隻を投入。米国は空母3隻、重巡洋艦5隻、軽巡洋艦3隻、駆逐艦17隻で対抗した。日本の海軍機動部隊の索敵機は敵機動部隊を発見できず、一方でミッドウェー島空爆部隊からは想定外の第2次攻撃を打診され、機動部隊は急きょ、艦載機の対艦攻撃用魚雷を対地用爆弾に換装するよう指示。しかしその直後に米機動部隊発見の報が届き、再度、対艦魚雷に換装することになり、この混乱のなかで米艦載機の猛攻撃を受け、赤城、加賀、蒼龍、飛龍の空母4隻と重巡洋艦1隻、艦載機約290機、搭乗員ら3057人を失う大敗を喫した。

 連戦連勝の大本営にとって、この敗北はまったく予想外の結果であり、損害の発表内容をめぐって内部で意見が対立した。大損害の真相を発表して国民の奮起を促すべきという報道部の主張に対し、作戦部は実際の損害を公表すれば国民の士気の低下、敵の攻勢を招きかねないなどと猛反対。結局、日本側の損害は空母1隻喪失、1隻大破に減らし、戦果は実際の空母1隻撃沈を空母2隻撃沈に水増し。ここで大本営の隠蔽を暴き、真実を報道すべきメディアは機能せず、新聞は大本営発表のまま、「洋心の敵根拠地ミッドウェーに対し、猛烈なる強襲を敢行するとともに、同方面に増援中の米国艦隊を捕捉、猛攻を加え、敵海上及び航空兵力、重要軍事施設に甚大なる損害を与えた」(朝日新聞)と報じた。また、6月15日付の読売新聞は大本営による戦果の追加発表(重巡、潜水艦各1隻撃墜)があったことを伝え、「米の〝大勝宣伝〟全く覆さる」との見出しで、「米当局は例によってこの敗戦をも大勝利を得たと出鱈目な報道を以て糊塗していた」とあげつらった。

 その後、1943年(昭和18)8月からガダルカナル島の戦いが始まると日本は完全に防戦一方となり、大本営は戦場からの撤退を「転進」、部隊の全滅は「玉砕」などと、負け戦の本質が伝わらない言葉のすり替えを重ねた。国民はそれを垂れ流す新聞、ラジオの報道を受け、「負けていない」「最後には勝つ」と信じたまま、沖縄戦や都市の無差別爆撃で無辜の市民の犠牲が拡大。開戦から3年9カ月後の45年(昭和20)8月、広島と長崎への2発の原爆投下がとどめとなって、ようやく終戦を迎えた。

平和を守るために

 アジアを蚕食する欧米列強への対抗、国益(満州の権益)のために戦争という手段を選択し、軍民合わせて320万人もの犠牲者を出して敗れた日本。あの夏からきょうで78年となるが、欧州ではロシアとウクライナの戦争が続いている。

 ウクライナを支援する西側諸国はロシアに対し、「力による現状変更は許さない」と声高に対決姿勢を示すが、国際連合での非難の応酬は、90年前、完全アウェーの松岡洋右が大演説をぶって退場した国連脱退劇の風刺にも見える。

 手痛い敗戦を経験し、謝罪と反省のうえに生まれ変わった日本は、過去の対米戦争と現在のロシア・ウクライナの戦争に何を学び、突きつけられた現実の危機にどう対処すべきなのか。日本人にとって守るべき国家、平和とはなんなのか。

 他国に攻め込んで最後はぼろぼろになった自らの悲惨な過去を振り返り、いまは核兵器国に「侵略された」ウクライナの側の視点に立って、隣国に攻め込ませない(戦争をしない)ための抑止力の構築が求められている。

        (おわり)

 この連載は玉井圭が担当しました。