バスに乗り遅れるな!

 1931年(昭和6)9月、日本が大陸で満州事変を起こし、国際連盟がその紛争処理の議論の場となっていたころ、ヨーロッパでは国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)を率いるアドルフ・ヒトラーがドイツ共和国の首相に指名された。ヒトラーは共産党など反対派勢力を抑え込み、2カ月後には全権委任法を成立させ、独裁体制を確立した。

日独伊三国同盟調印を報じる朝日新聞の記事(1940年9月28日付)

 日中間の紛争をめぐる国連の理事会、総会と並行し、32年からは国連主催による陸海空の軍縮を議論するジュネーヴ軍縮会議がスタートした。メンバーは米国、ソ連、ドイツも含む64カ国。国連常任理事国でありながら、第一次大戦敗戦国として植民地の放棄、過剰な賠償金などの措置を課せられていたドイツは、軍備の平等を強く要求したが受け入れられず、33年(昭和8)10月、軍縮会議と国連を脱退した。日本とドイツの相次ぐ離脱によって、米英と国連が主導してきた海軍、一般戦力の軍縮への機運は一気に萎びた。

 1905年(明治38)の日露戦争勝利から30年足らず。日本人の中には、国家と国民が一丸となって大国を撃ち破ったあの興奮を肌で知る軍人、国民も多くいた。植民地を持たず、経済力も小さい日本とドイツは、国民の暮らしよりも国家の利益が優先し、海外に資源の獲得を目指す全体主義が加速。この動きに欧米先進国も反応し、それぞれが安全保障戦略を練り直し、国際社会に再び不穏な空気が広がり始めた。

 1935年(昭和10)2月、天皇機関説をめぐり、軍部などによる機関説排除の国体明徴運動が起こった。8月には陸軍内の派閥争いから永田鉄山軍務局長が斬殺され、翌36年(昭和11)2月には陸軍皇道派の若手将校が決起し、斎藤実内相、高橋是清蔵相らを殺害した二・二六事件が発生。クーデターは未遂に終わったが、政治に対する軍の影響力はさらに大きくなっていった。

 1937年(昭和12)7月、北京西南の盧溝橋付近で日本軍と国民革命軍が衝突する支那事変が起こり、日中が戦争状態に突入した。日本政府は戦線不拡大方針をとっていたが、拡大を支持する国民の声に押された軍が北京、上海を占領し、12月には国民政府の首都南京に攻め込んだ。

 このころ、ドイツは武力による威圧でオーストリアを併合し、チェコスロバキアの解体に成功。1939年(昭和14)8月にはヒトラーとスターリンが独ソ不可侵条約を結び、9月1日、ドイツは同盟国スロバキアとともにポーランドに侵攻し、第二次大戦の戦端が開かれた。

 ドイツはその後もデンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギーに電撃侵攻し、1940年(昭和15)6月、フランスのパリが陥落。アジアでは9月、援蒋ルートを遮断するため北部仏印(フランス領インドシナ=現在の北ベトナム)に軍を進駐させた日本と米英仏の緊張が高まった。ヨーロッパのナチス・ドイツの快進撃に、日本国内では「バスに乗り遅れるな」という言葉が流行語となり、ドイツとの軍事同盟締結を求める声が高まった。

 40年9月、日本とドイツ、イタリアは、三国軍事同盟を締結。戦後はこのナチス・ドイツとの同盟によって日本が「米英との戦争へのポイント・オブ・ノーリターン(引き返し不能点)を踏み越えた」とよく指摘されるが、国民は近衛文麿首相が打ち出した東亜新秩序構想に酔いしれ、朝日新聞は「松岡外相は霞ヶ関から敬遠されがちだった白鳥敏夫氏を外交顧問に任命し、ここに日独伊枢軸の飛躍的強化を完成した。今後帝国外交はこの枢軸外交を中軸として、東亜共栄圏の確立にまい進し、これを阻止せんとする勢力には毅然たる態度をとることになるだろう」などと肯定的に書きたてた。

戦争準備と日米交渉

 国際連盟に加盟していなかった米国は、軍縮、対外協調を基本方針としていた第二次若槻礼次郎内閣(幣原喜十郎外相)までは、満州事変も含む日本の大陸進出に比較的寛容だった。しかし、1933年(昭和8)のルーズベルト大統領就任以降、日本のファッショ化が進むにつれ、対日姿勢は徐々に硬化。37年(昭和12)9月の支那事変で日中が戦争状態に入ると、米国はそれまでの伝統的な孤立主義から転換する姿勢を強調した。

 日本に対する経済面の圧力をみると、1939年(昭和14)7月26日、日米通商航海条約の破棄を通告。半年後の40年1月には条約が失効し、石油や鉄の対日輸出が部分的に禁止され、これにより日本は東南アジアに資源を求める南進方針が定まった。

 これについて、東京朝日新聞は「非友好態度は遺憾」との見出しで外務当局の見解を掲載。条約発効まで半年間の余裕があることなどを理由に、「日本が直接受ける打撃はすこぶる少なく、なんら痛痒を感じることはない」というのが外務当局の見解であると、楽観的に報じた。

 日本は難局打開(南進)の足がかりとして、1940年(昭和15)9月23日に北部仏印(現在の北ベトナム)へ進駐。さらに4日後の9月27日には日独伊三国軍事同盟を締結したが、この2つの動きがルーズベルト大統領の逆鱗にふれ、大統領は2週間後、ラジオ演説で「欧州とアジアの独裁国家(ドイツと日本)の連合といえども、米国と民主主義の前に広がる道においてわれわれを止めることはできない」と述べ、同盟三国に断固対抗する意志を示した。

 日本の陸海軍が対米決戦への準備を進める一方、政府は米国との戦争を避けようと、懸命の外交努力を続けた。1941年(昭和16)2月、和歌山市西釘貫丁出身の野村吉三郎が駐米大使に任命され、ハル国務長官、ルーズベルト大統領らと通商関係の改善、満州国の承認などを求めて議論を重ねたが、日本軍の中国大陸からの完全撤退、南進政策の放棄と北部仏印からの撤兵などを条件とする米国側との交渉は難航した。

 そのさなかの41年(昭和16)6月、ドイツが突如、不可侵条約を破ってソ連領内へ侵攻した。同盟国日本の松岡洋右外相はドイツとともにソ連をたたくべき(北進)だと主張、決定済みの南進計画を進めようとしていた陸海軍と対立したが、最終的に御前会議で原案の南進計画を進めることが決まり、日本は部隊を南部仏印に進駐させた。

 この交渉過程における軍事行動に対し、米国政府はさらなる経済制裁として日本の在米資産凍結を発令、8月1日には石油の対日全面禁輸に踏み切った。これには英国なども同調し、在英資産の凍結、通商航海条約の廃棄などを決定。当時、日本には平時で2年分、戦争になれば1年半分しか石油の備蓄がなかったという。日米交渉が決裂した場合、日本の選択肢は南方の資源の獲得、太平洋の輸送ルートの確保(開戦)しかなくなった。

 米国の石油全面禁輸は日本の開戦決意に大きな影響をもたらすことになったが、大手新聞は「いずれにせよわが国の米国政府の措置は予想されたことであり、その対策は十分検討され、万全の方策が樹立されている」「とくに航空機用潤滑油は国内原料からの精製が技術的に確立しているので恐れることはない。今後は人造石油事業の拡充に努力が必要となる」などと報じた。新聞、ラジオは満州事変以降、戦況報道や軍の行動を称賛するニュースで部数、売上を飛躍的に伸ばしていた。軍も政治家もマスコミを利用し、世論を導くメディアはその使命を放棄したかのように、国家が国民を道連れに戦争へと突き進む強力なターボとなっていた。

 8月4日、近衛文麿首相は米大統領との直接会談を決意した。陛下から全権委任を受け、ただちに野村大使を通じてハル国務長官に会談を申し入れたが、双方が交換した予備会談の最終提案は米側の理解を得られなかった。9月6日の御前会議では東条英機陸軍相が対米開戦を主張し、10月上旬までに日米交渉がまとまらなければ開戦を決意するとの帝国国策遂行要領が決定された。このとき、陛下は御前会議では発言しない慣例を破り、明治天皇が平和を願って詠んだ歌を読み上げ、最後の最後まで戦争回避に力を尽くすよう求めた。