資源を求めて大陸進出

 昭和初期、日本が米英など列強の反発を承知で大陸の満州に触手を伸ばした理由には、第1次大戦時の好景気(大正バブル)のあと、国内が相次ぐ恐慌に襲われたことが重要なポイントに挙げられる。1927年(昭和2)3月、片岡直温蔵相の失言が中小銀行の取り付け騒ぎを招き、さらに台湾銀行の鈴木商店への不正融資が発覚。その際の若槻礼次郎首相の対応、幣原喜重郎外相が進める協調外交(対中内政不干渉政策)に国内の資本家や軍部の不満が高まり、若槻内閣は総辞職。日本は不況と混乱の打開、ソ連の南下を阻止するため、豊富な資源と土地が広がる満州の領有を本気で考えるようになっていった。

 若槻内閣総辞職を受け、総理の座についた元陸軍相の田中義一は自ら外相を兼任し、部下の政務次官に対中干渉論者の森恪(いたる)を起用。それまでの対中協調から一転、対中強硬外交を推し進めた。蒋介石率いる国民革命軍が山東半島に迫ると、その周辺に住む日本人の保護を名目に、3回にわたる出兵を実施。政府は日露戦争で日本に協力した奉天軍閥の張作霖と手を組むが、張は北京で国民革命軍に敗れ、列車で奉天へ逃げ帰ろうとした際、列車もろとも爆破、暗殺されてしまう。主犯は関東軍参謀の河本大作大佐だった。

 田中内閣による大陸干渉政策は中華民国民衆の反日運動を激化させ、やがて関東軍に対しては政府も軍中央も制御不能に陥る。満州事変翌年の1932年(昭和7)3月には、関東軍の手により清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀を執政とする満州国が建国され、日本政府は9月、斎藤実内閣の下で日満議定書を締結。満州国の独立を承認した。

旧満州地域の地図(新京―大連間は南満州鉄道)

 国際連盟は中華民国国民党政府の提訴を受け、満州事変の発端となった柳条湖事件(南満州鉄道爆破)の事実関係を調査するため、英国貴族出身の政治家ヴィクター・ブルワー=リットンを団長とする国際連盟日支紛争調査委員会(リットン調査団)の設置を決議。32年3月から約3カ月間、日本と満州、中華民国各地を調査した調査団は、10月1日、国連理事会に報告書を提出した。

 その報告書は、満鉄爆破が「関東軍の自作自演だった」と指摘、満州事変は侵略行為だったと断定。これを受け、国連は33年(昭和8)2月24日の総会で満州からの日本軍の撤兵を勧告する決議案を採決した結果、反対は日本のみでほぼすべての国が賛成し、日本は即座に国連脱退を表明した。

 満州事変以降、満州国の建国、独立、国連脱退など、満州地域の権益を守りたい軍と、軍の記事を書けば儲かる日本の新聞、ラジオは互いの利害が一致。メディアはこぞって軍と政府の動きを肯定、称賛した。軍や政府の圧力もあったが、同時に経済が厳しいなか、列強に対抗する国民の闘志をあおる報道がラジオの販売台数、新聞の発行部数を押し上げ、メディアが権力に立ち向かう使命を捨て、国益追求の御旗の下、コマーシャリズムに傾いていったとも指摘される。軍人、軍属、民間人も合わせ、320万人以上が犠牲となった泥沼の戦争に突き進んでいったとき、新聞は何をどのように報じていたのか。

国連脱退は「光栄ある孤立」

 1931年(昭和6)9月18日、奉天郊外にある柳条湖で南満州鉄道が爆破された。現地の関東軍は中国軍(張学良)の東北軍の犯行と断定、軍事行動を開始し、満州全土を制圧した。中華民国国民党政府は3日後の21日、紛争の拡大防止を国際連盟に提訴。国連は12月10日の理事会において、日本側の提案を受け入れる形で英米仏独伊の5カ国で構成される調査団(リットン調査団)を派遣することが決まった。

 32年2月29日、調査団はまず東京に到着し、犬養毅首相、芳沢謙吉外相らと会談を行った。翌3月1日には満州国が建国を宣言。調査団はその後、建国された満州で執政の溥儀、関東軍の本庄繁中将らと会い、6月までに調査を終えた。

 10月1日、日本と中華民国などに通達された報告書は、柳条湖事件以降の日本軍の行動は「合法な自衛の措置と認めることはできない」とし、侵略行為だったと断定。翌33年(昭和8)2月24日の国連総会で報告書が審議され、満州からの日本軍撤退の勧告案は採決の結果、加盟44カ国のうち反対は日本のみ、シャム(現在のタイ)が棄権、その他42カ国が賛成した。日本代表の松岡洋右首席全権は満州国を国家として認めない国連の決定に反発。約1時間20分にわたる演説を行い、日本の国連脱退を表明して退席した。約1カ月後の3月27日、日本政府は正式に国連脱退を表明。これにより日本は表面上、国際社会から完全に孤立した。

 満州地域を中国の一部ととらえ、満州国を承認せず、宗主国たる日本の権利を中国に返還させるというリットン報告書の勧告案は、国際社会が結束して日本を非難し、追い詰めた文書だったと考える日本人は少なくない。しかし、その中身は日本の行為を侵略と断定し、中国の主権を認めてはいるものの、満州に対する日本の立場と権益も相当程度認めている。

 リットンは、紛争(満州事変)が起きたいま、「紛争が去る9月以前における状態から発生したことを思えば、その状態を回復することは紛争を繰り返す結果になる」とし、将来の平和的な問題の解決策(日本と中国がとるべき手続き)として、▽日中双方の利益と両立すること▽満州における日本の利益の承認▽日中間の新たな条約関係の設定――など10項目を明示。また、東三省(満州)に独立国とは違う形で新たな自治政府を組織することを提案し、その執政には複数の外国人顧問を任命、「日本人が十分な割合を占めることを必要とする」などと、多分に日本に配慮した提案を行っていた。ではなぜ、日本は国連脱退の道を選択したのか。

 33年2月、国連総会が開かれる直前、関東軍が満州南西部の熱河地方に侵攻した。すでに満州は建国され、日満議定書で独立が承認されており、関東軍は「満州の一部である熱河に日本軍が駐留しても問題にはならない」と考えていたが、国連加盟国は国連に対する侮辱と挑戦だと受け止めた。政府と松岡らは連盟規約に基づく経済制裁を避けるため、報告書が可決された場合、勧告を受け入れず、国連から脱退するよう方針を転換。国連を脱退してしまえば、規約に基づく制裁を受けることもないとの考えだった。

 世界恐慌も重なり、国内経済が疲弊するなか、松岡は1931年(昭和6)の帝国議会で「満蒙は日本の生命線」と発言。このころから、大陸(満州)に不況打開の光を求める国民の支持を集めるようになっていた。松岡にとって脱退は不本意だったが、日本のマスコミは英雄のように松岡の行動を称賛。東京朝日新聞は「連盟よさらば! ついに協力の方途尽きる」「わが代表堂々退場す」などと煽情的な見出しで報じた。

 国連総会のリットン報告書採択を受け、大阪毎日新聞は「わが国民の覚悟」という見出しの社説を掲載。「ここに至って我らに残されたのは光栄ある孤立であり、勇敢なる自主独往があるのみ」「この光栄ある孤立と自主独往を最後の完成に導くことは、実に今日におけるわが国民の最大の努力でなければならぬ」と主張した。

 国連総会を退席した松岡は帰国した際、予想外の熱狂的出迎えに当惑しながら、ラジオを通じ、「少なくとも自分はわが国の立場を明らかにし、主張を通しながら連盟には残りたいと考えていたが、そうならなかった。この点は完全に失敗であり、国民諸君に申し訳ないと考えている」と陳謝したが、その声は国民の喝采にかき消された。