写真=学校敷地内にイペーの苗木を植える児童たち

 みなべ町岩代出身の偉人で、戦後、ブラジルへの移住計画を先導し「戦後移民の父」と呼ばれた松原安太郎(1892~1961年)のことを知ろうと、母校である岩代小学校で10日、地域学習講演会と記念植樹が行われた。県中南米交流協会の眞砂ムツ子事務局長の講演を聞いた後、5、6年生18人が学校の一角にブラジルの国花「イペー」の苗木を植栽。日本とブラジルの架け橋となった偉大な先輩に思いをはせた。

 松原安太郎は岩代村(現東岩代)に生まれた。第一次世界大戦に出征後、1918年、26歳のときに妻のマツと2人で長崎からブラジルに渡り、コーヒー農園の労働者として2年契約で働き、さらに2年延長しながら通訳などとしても活躍し、資金を貯めた。ブラジルに渡って4年後には独立し、コーヒー栽培を始め、やがて大農場主として成功を収めたが、昭和の大戦で国交が断絶。それまで19万人もの日本人を受け入れていたブラジルには戦後、日本からの移住が途絶えてしまった。

 松原は日本人移住者が途絶えて現地の日系人が孤立していくことを懸念。加えて戦後、650万人もの引揚者をかかえて食糧難の日本を救う一助にもなると、日本人移住者の受け入れ再開を、親交のあった当時のバルガス大統領に訴えた。

 バルガス大統領の協力で1952年、8年間で4000家族、2万人の日本人移民を受け入れる計画、いわゆる「松原計画」をブラジル政府が容認。同年、一時帰国した松原は日本人移住の打ち合わせを政府要人と折衝し、天皇陛下に拝謁も賜った。松原の地元である和歌山県は移民募集に積極的に動き、翌53年には「松原移民」第1陣65家族(うち56家族が和歌山県人)がブラジルに入植。戦後、日本から移民した6万人の先駆けとなった。

 松原植民地は南マットグロッソ州ドラードス市近くの原生林に設営され、入植後、霜の被害で大半は入植地を離れるなど思うようにはいかなかったが、功績は大きく「移民の父」と称された。今でも現地近郊には和歌山県出身者や子弟が住んでいるという。

 眞砂事務局長から松原の功績を聞いた後、敷地内の斜面にイペーを植樹。スコップや手で土をかぶせた。6年生の中井珀斗君は「松原さんのことは知らなかったですが、きょうは分かりやすく教えてもらって、すごい功績だと思いました。岩代小の先輩ということは誇れるし、うれしいです」と話していた。

 講演と植樹に出席した小谷芳正町長や井戸和彦教育長、和歌山大学観光学部の東悦子教授らは「岩代に立派な人がいたことを誇りに思って、しっかり学んでほしい」と期待を込め、県中南米交流協会の眞砂睦会長(上富田町)は「イペーはブラジルでは日本のサクラのような存在。日本、ブラジル両国を愛した松原さんもイペーの植樹を喜んでいると思う。松原さんのことを知る人が少なくなっており、これからもみなべ町内の小中学校で功績を伝え、盛り上げていきたい」と話している。