南高梅のルーツとなる樹齢約120年の母樹が、JA紀州アグリセンターみなべの事務所前から、生誕の地である晩稲の高田家の園地へ42年ぶりに里帰りした。移植作業が終わり、25日には里帰り式典が現地で行われ、JA関係者や梅干しを製造する企業でつくる組合代表者らが出席し、現在の隆盛の立役者となった母樹に感謝。所有者の高田智史さん(63)=紀州高田果園代表=は「梅産業の飛躍が母樹への恩返しなる」と継承と発展を願った。

 全国に誇るブランド「南高梅」の起源は118年前にさかのぼる。

 1902年、晩稲の高田貞楠さんが近所の勇惣佐七さんから「内中梅」の実生苗60本を購入して植栽。その中に、ひときわ大粒で美しい紅のかかる1本を見つけ、「高田梅」として大切に育てた。31年には、小山貞一さんが貞楠さんから60本の穂木(母樹から切り取った枝)を譲り受け、苦労を重ねて高田梅を栽培。50年には「梅優良母樹種選定会」が発足し、5年にわたる調査の結果、37種の候補の中から「高田梅」を最優良品種と認定。この調査に力を注いだのが南部高校教諭の竹中勝太郎氏で、高田の高と南部高校から「南高梅」と名づけられた。

 現在、県内で育成されている南高梅の木はすべて母樹の〝子孫〟。母樹は78年11月、当時のJAみなべ梅部会が譲渡を受け、JA本所(現アグリセンター)に植えられていた。今回、アグリセンターの梅加工施設増改築に伴い母樹の移設が必要になり、生誕の地へ帰ることになった。

 式典には約30人が出席。世話人の小山豊宏さんが経過を報告し、JAみなべいなみ梅部会の舟越公康部会長が譲渡書を高田さんに手渡した。JA紀州の本谷昌平常務、坂本登県議、紀州みなべ梅干協同組合の泰地祥夫代表理事、紀州田辺梅干協同組合の中田吉昭理事長らがあいさつし、南高梅を広めた母樹や先人に感謝した。

 高田さんは「まちの、そして南高梅のシンボルとして長い間いろんな働きをしてくれて本当にありがとう。ゆっくり休んでください」と母樹に感謝。「ここに帰ってから木が若返ったよう。兄弟樹や周りに孫樹がいて、家族のもとに帰ってきて喜んでいると思う。地域の地場産業の主であり、皆さんの協力を得ながら、しっかり継承していきたい。今後産業をさらに発展させ、世界的な南高梅にしていくことが母樹に対しての恩返しになる」と決意を新たにした。

写真=生誕の地に戻った母樹と高田さん