昭和20年7月28日、由良町の由良湾で米軍機による攻撃を受けて炎上、楠見直俊艦長以下、99人が死亡した第30号海防艦に関し、それ以前の12人が死亡した戦闘は同月10日ではなく、11日だったことが、同町大引の中西忠さん(83)の調べで明らかになった。自身の体験や住民、海上自衛隊関係者、元海防艦乗組員の証言、軍関係者がまとめた資料などが根拠。戦後70年のことし、本紙は22日付から中西さんがまとめた記録を連載する。
 昭和20年7月、由良湾には潮岬、紀伊水道の防衛を任務とする第30号と第190号の2隻の海防艦が停泊していた。糸谷の通称「宮の鼻」付近の岸に並行して横付けしていた30号は、同月28日朝から敵のグラマン編隊による波状攻撃を受け、25㌔の小型爆弾4個が直撃するなどし、夜になって燃料に引火して炎上、擱座(かくざ)。午後11時に沈没した。
 この30号海防艦は28日以前にも12人が死亡する戦闘があり、由良町誌などによると、これまではそれが7月10日となっていたが、中西さんは自身の記憶と地元の目撃者への聞き取り、さらに昨夏、本紙が取材した寝屋川市に住む元30号乗組員大野一富さん(87)の証言などから、12人が亡くなった戦闘は11日だったことが分かったという。
 中西さんによると、由良湾では7月10日の朝から、阿戸の紀伊防備隊主催のボートこぎ大会が行われ、2隻の海防艦チームと海軍紀伊防備隊チームが参加。これに優勝した30号チームは、松弥四郎艦長のはからいで、午後から甲板上で無礼講の祝勝会を開いた。同じ日の朝、由良湾から重山(かさねやま)を挟んで北側の白崎沖では、神谷港を出港した軍徴用船の木造貨物船、住華丸(すみかまる)が米軍機に襲撃され、前田佐七船長、田辺元市機関長ら4人の乗組員のうち、前田船長と田辺機関長の2人が死亡。あとの2人も重傷を負った。
 このとき、大引に住む中西さん(当時13歳)は自宅から、白崎沖の海上を我が物顔で飛び交う米軍の中型爆撃機B24を目撃。住華丸を襲ったのがこの中西さんが見たB24かどうかは分からないが、午後には小引方面から重山上空を通過し、日高町柏方面へ3機のB24が低空で飛んで行った。
 由良湾では30号海防艦が酒宴の最中。重山が陰になってB24には見つからなかったが、松艦長は「敵機襲来、戦闘配置につけ」と一杯気分の乗組員に号令をかけた。3機の機影が柏の空に消えかける寸前、海防艦の高角砲が火を噴き、敵機に命中はしなかったが、最後尾の機の至近距離で爆発。3機のB24はすぐさま旋回、海防艦を血祭りにあげるべく引き返し、それぞれが爆弾1発ずつを投下して飛び去った。幸い、3発とも当たらず、海防艦はまったく無傷だった。
 この30号海防艦が放った「運命の一発」により、由良湾に2隻の戦艦がいることが敵に分かり、翌11日にはすぐさま当時最新鋭のP51ムスタング3機が飛んできた。このときの戦闘で機銃の射手だった大野さんは足に敵の機銃を受けるなど重傷を負い、12人が戦死。この12人の中に松艦長は含まれていないが、中西さんは「海軍の機密のためはっきりとした資料はないが、松艦長は大野さんら二十数人の負傷者の中に含まれ、後日亡くなったのはほぼ間違いない」。11日の戦闘から数日後、28日に戦死する楠見艦長が着任した。
 7月10日の運命の一発の標的となったのは、B29やグラマンだったという説もあったが、「B29は低空では飛ばないし、自分はその日、確かに2枚の垂直尾翼のB24を見た」という中西さんの記憶は、大野さんの証言によって裏付けられた。また、11日の戦闘で松艦長が負傷、楠見艦長は着任したばかりだったということも、大野さんの証言や最近見つかった軍関係者がまとめた資料により判明した新事実。
 中西さんは「由良町の今日の繁栄は、あの海防艦乗組員の尊い犠牲のうえにあります。私は自分しか目撃していない真実を頼りに、海防艦の戦闘を調査してきましたが、これまで何度も病の死線を乗り越え、ここにきていくつも偶然が重なって新たな事実が続々判明したのも、自分が正しい歴史を世に出すために生かされてきたのかもと、そんな気がしてなりません」と話している。