「嵐が丘」は世界三大悲劇として有名な小説である。

 寒風吹き荒れる丘に建つ屋敷(嵐が丘)の主人に拾われた主人公のヒースクリフ。屋敷の娘キャサリンに恋い焦がれながらも若主人の虐待に耐え忍んできた。そこへ持ち込まれたキャサリンの結婚話。絶望のうちに屋敷を去るが、やがて大富豪となって復讐のために嵐が丘へ戻ってきたという話。その名作が日本では昭和7年より翻訳されてきた。その数なんと14作品。翻訳物は訳によりかなり差異が見られる。今回は世界文学史上最も有名な文章と云われる「嵐が丘」の一文を採り上げ、読者の嗜好に問いかけようと思う。

 先ずは原文を示す。
―Nelly,I am Heathcliff,-he is always,always in my mind- not as a pleasure ,any more than I am always a pleasure to myself-but ,as my own being-

 一番古い昭和7年、大和資雄(春陽堂)訳から。

 ―ネリーや、私はヒースクリフなのよ! あの人はいつもいつも私の心にいてよ。私自身が必ずしも私にとって愉快なものじゃないと同様に、あの人も愉快なものとしてではなく、私自身として私の心にいてよ。

 次に昭和18年河出書房「新世界文学全集」三宅幾三郎の訳。

 ネリィ、あたし自身がとりもなおさずヒースクリフなの! 彼はつねに、つねにあたしの心のなかにあるの。あたし自身がかならずしもつねにあたしにとって喜びではないのと同じに、彼も喜びとしてではなく、ほかならぬあたし自身としてあたしの心の中にあるの。

 続いて中央公論社の「世界の文学・第十二巻」河野一郎・昭和38年版では、

 ネリー、あたしはヒースクリフなのよ! 彼はいつでも、どんなときでも、あたしの心の中にいるの。―あたしが自分にとって必ずしもいつも喜びではないのと同じように、喜びとしてではなく、あたし自身として。

 そして現代、平成15年の新潮文庫・鴻巣友季子の訳では、

 ―ネリー、わたしはヒースクリフとひとつなのよ。 ―あの子はどんな時でも、いつまでも、わたしの心のなかにいる ―そんなに楽しいものでもないわよ。ときには自分で自分が好きになれないのといっしょでね。―だけど、まるで自分自身みたいなの。

 最後に一番新しい翻訳を。平成22年・光文社「古典新訳文庫」小野寺健訳より

 ネリー、あたしはヒースクリフなのよ。―彼はいつでも、どんなときにも、あたしの心の中にいるの。―べつによろこびではないわ。あたし自身が自分にとってよろこびではないのと同じで。
そうではなくあたし自身なのよ。

 さあ、あなたにとって一番お気に入りの翻訳はどれでしょうか?

 世界文学の名作に、一度ふれてみてください。(秀)