俳句は五・七・五という世界最小の定型詩であるとして多くの人に知られている。最近では芸能人がこの俳句を作って優劣を争うというテレビ番組まで存在する。
さて、この「海も暮れきる」である。これは小説のタイトルであるが、これを読んで、なにかお気づきになることはないだろうか。もし、あなたが「おや?」と思われたなら、あなたはかなり感性の鋭い、俳句作りに適した才能をお持ちの方かもしれない。
海も暮れきる
実はこれは俳句なのである。作者は尾崎放哉。正しくは、
障子開けておく 海も暮れ切る
である。つまり下の句だけを小説のタイトルとしたのである。吉村昭は死ぬ間際、「放哉の句集を棺に入れて欲しい」と頼んだそうだ。それほどまでにお気に入りの俳人だったのである。
この俳句には季語もなければ五・七・五でもない。しかし、俳句のすべてが備わっていると、わたしには思えるのである。「障子を開ける」とは小寺の庫裏の障子である。尾崎放哉は晩年胸を病み、小豆島の小寺の寺守りとして過ごした。自分が臥せっている庫裏の障子を開けさせて詠っているのである。
この小説は尾崎放哉が胸を病んで小豆島へ渡るところから始まっている。東京帝国大学を卒業し、東洋生命保険に就職し、その後、朝鮮へ渡り朝鮮火災保険京城(現ソウル)支店の支店長となった。しかし胸を病んで退職をする。小説には小豆島での生活が放哉が亡くなるまで描かれている。しかし、それは惨憺たるものであった。吉村昭はこの小説の取材で小豆島へ渡る。が、そこで聞いた放哉の評判は散々なものであったと、この本の終わりで書いている。そのような男のことをなぜ書くのかと詰問されたという。それというのも尾崎放哉は東京帝国大学出身を鼻にかけ、自分が臥せって島民にお世話になっているにもかかわらず、横柄な態度で接し、しかも島民を馬鹿にしたように暮らしていたというのである。そのような放哉でも、けなげに世話をする娘がいた。彼女の姿は美しい女神のように燦めいて、ときには神々しくさえあった。
死の直前に放哉はこう詠っている。
とんぼが淋しい机にとまりに来てくれた
これ以外にもいくつか俳句があるが、これらはいずれもいいのである。
こんな俳人がいた。
そんな俳人の晩年を描いた作品である。
最後に、ひとつ別の俳句を紹介しておきたい。
櫓の声波ヲうって腸(はらわた)氷ル夜やなみだ
これは松尾芭蕉の俳句である。
蕉風俳諧として俳句を確立した芭蕉であるが、これも自由律俳句だと、わたしには思えるのである。(秀)
※今回から、読者の中尾秀樹さん(日高町)が「としょがかり」に加わってくださいました。