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それぞれの戦争を訪ねて21② 田中 雅子さん

写真=自宅で戦時中の体験を語る田中さん

お寺の床下から見たB29

1939(昭和14)年11月、由良町の由良川河口付近に大日本帝国海軍の紀伊防備隊が建設された。現在の由良町庁舎、由良中学校、海上自衛隊由良基地分遣隊の周辺にあり、敷地内には病院、本部庁舎、兵舎、衛兵所などが設けられ、常時1600人以上の将兵が駐屯していた。

発足当初は呉鎮守府(広島県)に所属していたが、41年(昭和16)以後は新設された大阪警備府に属し、紀伊水道の海面警備と哨戒、海上交通の保護を任務としていた。

その後、日米の戦争が勃発。戦闘体制強化のため、43年に紺源山(こんげんやま)とお禿(は)げ山の山頂に対空高射砲陣地、阿戸大谷地区には弾薬貯蔵用の洞穴トンネル33カ所を建造。米軍攻撃の標的になったこともあり、終戦間際の45年(昭和20)7月には第30号海防艦が米軍艦載機(グラマン)との激戦の末に沈没、乗組員約100人が戦死した。

終戦から76年が経過し、近くの大引地区には県内外からの多くの観光客が訪れているが、今の穏やかで美しい光景からは想像もできない悲しい過去があった。

1930年(昭和5)11月29日生まれで現在90歳の田中雅子さんは、紀伊防備隊から西側の由良湾沿いにある糸谷地区に生まれた。3歳のときに母親が他界し、その後に父親は再婚。戦争当時は祖父らを含めた8人で生活していた。

戦況が悪化するにつれ、由良の上空を米軍機が飛び交うことが多くなってきた。雅子さんが地元の小学校高等科(現在の中学校に相当)に通っていた頃、夜に空襲警報のサイレンが鳴り響いた。家の明かりが外に漏れて上空の米軍に気づかれないよう、すぐに電球に黒い布を被せた。弟、妹らと一緒に暗闇の外に出て、少し離れた覚性寺まで小走りで向かった。本堂へ上がる階段の横から床下に入る隙間があり、そこが防空壕がわりだった。身を寄せ合って隠れていると、米軍の爆撃機B29が「ゴー」という低い音を立てながら飛んでくるのが分かった。雅子さんたちは「どうかここには爆弾を落とさないで…」と祈り、震えながら床下から空を見上げると、月明かりの中を飛行するB29が確認できたという。幸い爆弾は落とされず、B29は通り過ぎた。狭い場所に身を潜めていたのはせいぜい30分ほどだったが、雅子さんには1時間にも2時間にも感じた。

 

働きに出た堺で恐怖の空襲

写真=終戦直後の焼け野原の堺市街 (堺市提供)

雅子さんは子ども時代を由良で過ごした。通っていた白崎小学校や地元の高等科では、勉強よりも芋やカボチャの根菜類を植える作業が多かった。家での食事も米のご飯が出る日は少なく、毎日、芋やカボチャを食べて育った。

1945年(昭和20年)3月、高等科を卒業後、ふるさとを離れ、4月からは堺市にあった軍需工場で働いた。機械に油を差す仕事を担当していたが、工場で何を作っていたのかは記憶にないという。

戦争は由良以上にひどかった。一大軍需都市となっていたことや大阪の軍需工場の労働者に住宅を提供していたことから、堺市も米軍の標的となっていた。焼夷弾、爆弾、機銃掃射などによる空襲は1945年(昭和20)3月に1回、6月に2回、7月と8月に各1回の5回にわたって受けた。死傷者は約3000人、建物の被害は全焼と半焼を合わせると1万9000戸。人的にも物的にも大きな被害を被った。

雅子さんの堺での生活は、仲間4人との寮生活。ある日の夜、空襲警報のサイレンが鳴ったが、雅子さんは仕事疲れからか、すっかり寝入ってしまっていた。ハッと目を覚ますと、寮の仲間たちは誰もいない。慌てて飛び起き、寝間着姿のまま逃げ出した。靴を履く時間さえ惜しみ、裸足のまま無我夢中で近くの浜へ向かって走った。周りの山や海には焼夷弾が落ちる音が聞こえる。寮を出てどれぐらいの時間がたったのか、どれぐらいの距離を走ったのかもはっきりと覚えていない。ようやく浜にたどり着き、同僚たちの姿を見つけた。爆弾が落ちる音はまだ聞こえている。しかし、仲間と一緒にいるというほんの少しの安心感から、うれしさで涙が出そうになった。しばらくすると、空襲は収まり、命からがら生き延びた。

大阪での生活を続けていた8月15日、玉音放送は働いていた工場で聞いた。雑音が多く、何を言っているのか分からなかったが、戦争が終わったということだけは分かった。「これで生まれ故郷の由良に帰れる。また、家族と一緒に暮らすことができる」。戦争には負けたが、うれしい気持ちが込み上げた。約4カ月半の大阪での生活を終えて由良に帰郷。22歳で結婚し、4人の子どもを授かり、今はひ孫までいる。

自宅からは戦災があった由良湾が見える。その海の波止場には釣り人が訪れ、のんびりと釣り糸を垂れている。戦時中の悲劇はまったく感じられない。

雅子さんは「戦争はもう嫌。怖いことばっかりだった。子どもや孫らには絶対にそんな体験はさせたくない」と、穏やかな海のそばで静かにつぶやいた。

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