年が明けてから歴史に関することばかり書いているような気がするが、先日は、公益財団法人和歌山県文化財センター主催の公開シンポジウム「紀中・紀南の旗頭 湯川氏の城・館・城下町」を取材した。資料によると、湯川氏は「戦国大名を輩出しなかった紀伊国において、それに最も近かったとされる」存在であるという
「甲府では今でも武田信玄のことを必ず信玄公と呼ぶ」とテレビで観たことがあり、地元に誇れる戦国武将がいたことが羨ましかったが、紀伊で戦国武将に最も近かった湯川氏は、その甲斐武田氏の流れを汲む一族であるらしい。小松原館の規模の大きさから勢力の強さ、改修の時期や形などから当時の状況を推し量れる。天正年間には池や大規模な堀の掘削など大掛かりな土木工事が行われており、全国制覇を目論む織田信長に対抗する目的での改修とみることもできるという
 
 印象に残ったのは、湯川氏館周辺の景観に関する考察。古文書から、亀山を非常時に住民の生業を保証する場としていたことが分かっているが、これは全国的にも珍しい事例。「善政といっていい処置であり、名君といえると思う」と、発表した和歌山城企画整備課の新谷和之氏は述べていた。地元の殿様が名君であったと知るのは、うれしいことである
 「考古学は地域に勇気を与える」とは、岩内1号墳について有間皇子埋葬説を提唱した故森浩一氏の言葉。当地方には、弥生時代に物流の拠点だったことをうかがわせる堅田遺跡があり、古代皇族とのゆかりを物語る宮子姫伝説があり、有間皇子の埋葬説のある岩内古墳がある。さらに、中世の紀伊国で最も戦国大名に近かった湯川氏の本拠地である。どの時代も知れば知るほど、きっと勇気を与えられる。(里)