年末から年始にかけて、書店や文房具店などには日記用のノートが並ぶ。それを眺めると子どもの時から10年間ほどノートに日記をつけていたことを思い出し、懐かしい気がする。その後ワープロを使い始めてから、日記帳を使うことはなくなったのだが。
 書いたものがノートや本などの形でなく、データとして保存されるのが普通になっている。情報検索の効率という点から考えると、この社会変化はこれから先も加速度的に進むと思われる。電子書籍の普及などもその一つだろうか。
 必要な情報を素早く手に入れられるに越したことはない。が、たとえば幼い頃に読んだ新美南吉の「ごんぎつね」などをパソコン画面で全文読むことを想像すると、何か寒々しいものを感じてしまう。それは単なる感傷なのだろうか。
 カバーや挿絵などのつかない状態の作品を読めるという点では、最も純粋な形での読書を楽しめるといっていいのかもしれない。だが、人は「つながり」によって物事をつかむ。ある本を手にした時の重み、装丁や挿絵、読んだ時の状況、それを読む原因になった人との関係。それらすべてが合わさったものが、その人にとっての本の価値になる。作品をデータと捉えるなら、それらはすべて取り払われる。
 文学作品を「文字情報」と捉えることに違和感を感じる時代と感じない時代、その過渡期がまさに今なのだろう。未来に今を振り返った時、その前と後で価値観などにどのような違いが発見されるのだろうか。
 この時代の変化が何を意味するか、難しくてよくは分からないが、ただ日記帳が店頭に並ぶ今はまだ、書いたものを手にとってしっかり確かめることのできる時代なのだと思い、何かホッとする気がする。      (里)