友達より1年遅れて女学校へ

 御坊市島の内本町に暮らす福田郁子さんは、1933年(昭和8)3月、和歌山市中之島で生まれた。終戦1年前の44年(昭和19)の夏に母親の里の御坊へ引っ越し、戦後は夫と洋品店を営みながら2人の子どもを育て上げたが、苦難と混乱の中でいまも忘れることのできない出来事があった。

 父方の祖父は若いころにハワイへ移住するも、下働きばかりで生活は苦しく、和歌山へ戻ったあと、ランプの明かりが長持ちする口金を発明した。その特許で得たお金を元手に不動産貸付業を営み、1人息子だった郁子さんの父政一さんはその跡を継ぎ、日高郡名田村(現御坊市名田町)祓井戸出身の妻キミエさんとの間に5人の子どもをもうけた。

 44年7月ごろ、軍人ではなかった政一さんは、当時横行していた不当な戦時徴用から逃れるため、御坊の島にあった石川島航空日高工場へ就職。単身赴任で働きながら家をさがし、しばらくして本町商店街(現在の1丁目)に借家を見つけ、8月ごろに妻キミエさんと郁子さんら家族を呼び寄せた。

 そのころ、一家は和歌山市駅近くの西釘貫丁に暮らしており、御坊へ引っ越す際はまた戻ってくるつもりで、家は手放さず、持ち出す家財道具は最小限に抑えた。「着物なんかこの戦争のさなかに着ることはない」と考え、三段の桐のたんすは、着物を入れる真ん中の観音開きの段を置いていった。しかし、45年7月9日の深夜から翌朝にかけての大空襲で家は全焼。よそいきの着物も人形のおひなさまも、何もかも焼けてなくなった。現在の家の納戸にある黒いたんすを見るたび、子どものころに過ごした西釘貫丁の家を思い出す。

 郁子さんが国民学校初等科の6年生だったとき、キミエさんが感染症の腸チフスを患った。医師に診てもらったところ、家族に症状はなく、周囲の人が感染する可能性はほとんどない状態だったが、栄養失調も重なったため、日高病院へ入院することになった。このとき、キミエさんは家から病院まで、黒いテントで覆われた荷車に乗せられた。それは「黒車(くろぐるま)」と呼ばれ、すれ違う人は息を止めて顔をそむける感染症患者専用の搬送車だった。

 翌日、郁子さんがいつものように学校へ行くと、女性の担任に教室の前の廊下で呼び止められ、激しい口調で叱られた。「あんたのお母さんはきのう、黒車で運ばれたやろ。学校へ来たらあかんやないの。(クラスの)ほかの子にうつったらどうするの!」。いまでは考えられない差別的な扱いだったが、郁子さんは黙って従い、キミエさんが退院して帰ってくるまで、長く学校を休んだ。

 初等科卒業後は日高高等女学校(現日高高校)へ進むつもりだった。しかし、このときの長期欠席で出席日数が足りなくなり、女学校を受験できなくなった。郁子さんは仕方なく国民学校高等科へ進み、翌年、同級生に1年遅れてあこがれの女学校へ入学した。戦後の48年(昭和23)からは学制改革に伴い高等女学校が廃止され、女学校3年生になるはずだった郁子さんは新制高校ではなく、新制中学校3年生となり、自分は「放り出された」と感じ、このとき初めて学校へ来るなといった先生を恨んだ。

誇らしかった真っすぐな母

 戦争末期の1945年(昭和20)1月から終戦の8月15日にかけて、和歌山市では十数回の空襲があった。この年は日高地方も3月以降、集落や船舶、軍需施設が米軍機の標的となり、6月7日には御坊町(現御坊市)薗の浄土真宗源行寺の本堂と鐘楼の間に大型爆弾(通称・1㌧爆弾)が着弾。境内の防空壕へ逃げ込んだ住職の妻と3人の子ども(住職は中国大陸へ出征中)、警防団、近所の人ら11人が即死した。このとき、郁子さんは御坊国民学校(現御坊小学校)高等科の1年生。爆弾が落ちたあと、小さな〝事件〟が起きた。

 11人の犠牲者の中には自分と同年代の女の子もおり、その子の母親はいったん一緒に防空壕へ入ったが、忘れ物に気づいて1人で家へ戻った。その直後、爆弾が炸裂した。無謀な自分が助かり、防空壕の中の娘が死んでしまった母親はその現実を受け入れられず、半狂乱になって泣き叫んだ。

 周囲の人たちも、爆撃の直後こそ同情する表情だったが、数日たっても放心状態で泣き続けている母親をバカにし始めた。「〇〇ちゃん、〇〇〇〇や」。その様子を見た郁子さんの母キミエさんは黙ってられず、「あんたら、なんで〇〇ちゃんを笑うんな! 目の前で自分の子どもが亡くなったら、誰でもみんなおかしなるやろ。おかしなれへん方がおかしいんじゃ!」と食ってかかった。そのあまりの勢いに、母親を笑っていた人たちはぐうの音も出なかった。その後、落ち着きを取り戻した母親が郁子さんの家まで来て、キミエさんに「あんたのおかげでもう誰も、私のこと笑わへんようになったよ。ありがとう」と礼をいった。女としては少々、気性が激しかったのかもしれないが、郁子さんは子どもながら、正義感の強い母親を少し誇らしく思った。

 郁子さんは5人きょうだいの2番目で、御坊の家では両親と5歳上の兄、3人の妹と暮らしていたが、和歌山市では10歳上の義理の姉晴子さん(父の先妻の子)が中之島の元の実家に近い借家に1人で住んでいた。すでに社会人だった晴子さんは紀ノ川の対岸にある父の知り合いの鉄工所で事務員として働いていた。男性従業員が次々と兵隊にとられ、人員不足で辞められなくなり、終戦の1年前、家族が御坊へ移った際も一緒に行くことはできなかった。

 戦争末期、7月の和歌山市の大空襲や海南の石油関連施設が爆撃されて炎上したという話は、御坊にもすぐ伝わった。国民学校高等科1年生だった郁子さんは、大勢の兵隊が駐屯していた学校の校庭から、和歌山市方面の北の空が赤く染まるのを見た。「晴子さんは大丈夫かな」。離ればなれの晴子さんの身を案じ、胸が締め付けられた。

 父政一さんは和歌山大空襲の話を聞き、すぐにも飛んでいきたかったが、国鉄の列車は走っていなかった。晴子さんの職場の人とも連絡がとれず、矢も楯もたまらなくなった政一さんは、自転車で山を越えて和歌山市へ向かった。炎天下、何時間もかかって和歌山市までたどり着くと、西釘貫丁の家は焼けてなくなっていたが、晴子さんは無事で六十谷の親類宅に身を寄せていた。

 郁子さんは1957年(昭和32)、24歳で川辺町(現日高川町)鐘巻出身の至琅(しろう)さんと見合い結婚。しばらくは2人で政一さんが中町商店街で始めた洋品店と質屋を手伝っていたが、長男が生まれて数年後には、元町商店街に移って新しく自分たちの洋品店「フクダ」を始めた。

 2人の息子が大きくなってからは、ダイビングなどアウトドアが趣味の至琅さんに連れられ、国内外のいろんなところを旅した。至琅さんは印南町に道路保安用品製造・販売の会社を設立して事業を軌道にのせ、4年前には趣味の絵や写真などを集めたギャラリー「福ちゃんのアトリエ」をオープンさせたが、昨年3月、病院に親友を見舞った翌朝、親友が亡くなり、自分も持病から体調が急変、その日の午後に亡くなった。91歳だった。

 戦争という苦難を乗り越え、戦後は夫婦で力を合わせて生き抜いてきた郁子さん。友達とのおしゃべりとたまに行くカラオケ、麻雀牌を使った脳トレを楽しみながら、91歳のいまも日日是好日。家では至琅さんや子ども、孫たちの笑顔の写真と思い出の品に囲まれ、「漁師の子どもだったお母さんは94歳まで長生きしました。私もそれに追いつけるよう頑張ります」と笑う。