大阪空襲の直前に帰郷

印南町山口に生まれ、現在は美浜町吉原(新浜)に住む芝﨑シヅヱさん。父五郎右衛門さんと母キヨノさんの次女として、1922年(大正11年)10月20日に生まれ、大正、昭和、平成、令和と1世紀近く、4つの時代を生き抜いてきた。きょうだいは兄2人と姉、妹の5人。地元印南の小学校、中学校を卒業し、日高高等女学校(現日高高校)に通った。五郎右衛門さんは小学5年の時に病気で他界。残された母キヨノさんが女手一つで5人の子どもを育てた。

シヅヱさんは女学校を卒業後の20歳ごろ、大阪市大正区泉尾にあった天王寺電話局の社長の家に奉公に出た。働き始めて約1年が経った頃、戦争が激しくなり始め、満州に出兵していた兄友一さんから「実家で母親が1人で農業をしている。すぐに地元に戻りなさい」という手紙が届いた。印南へと帰り、母親と2人で生活。女性には重労働の農業に精を出した。

戦況は悪化する一方で、終戦間際には毎日のように米軍機が頭の上を飛行。「ゴー」という地響きのような音が聞こえ始め、朝も夜も上空を飛んだ。時には艦載機のパイロットの顔が見えるほど低空を飛行することもあったという。爆撃こそ免れたが、米軍機が上空を通るたびに、畑の隅に身を隠して避難した。敵に見つからないようにと、夜は部屋の明かりを消し、昼間は目立ちにくい黒っぽい服を着て外に出た。毎日、米軍機に怯え、逃げ回る日々が続いた。

大都市の大阪は和歌山とは比較にならないほど大きな被害を受けていた。100機以上のB29による大空襲の1回目は45年3月13日午後11時57分から始まり、終戦直前の8月14日まで計8回にわたって行われた。一般市民1万人以上が死亡。無差別爆撃だった。奉公に行っていた大正区泉尾も例外ではなかった。2回目の大空襲となった6月1日午前9時28分から11時にかけての約1時間半にわたってB29計509機が来襲。街じゅうが火の海となる壊滅的な被害だった。

終戦後に再び、自分が働いていた奉公先を訪ねてみると、そこは完全に焼け野原と化していた。目に映ったのは黒く焦げた景色ばかり。奉公時代に近くの学生たちが声高らかに軍歌をうたいながら歩いていた姿は、もちろん見ることはできなかった。その後、大正区の爆撃は、印南へ帰った直後の出来事だったことを知った。「あの時、兄から地元の印南に戻るように言われました。もし兄の言いつけを振り切ってそのまま働き続けていたらと思うとゾッとします。あと一日帰るのが遅れただけでも、たぶん、いまの自分はなかったでしょう」と振り返る。

 

夫は出征先の中国で死を覚悟

 

8月15日。「正午から天皇陛下からの放送がある」という知らせが届き、自宅のラジオで終戦を知ることになった。シヅヱさん宅には、ラジオを持っていない近所の人も10人ほど集まっていた。玉音放送は雑音が大きく、何を言っているのかよく聞き取れなかったが、戦争が終わったことだけは分かった。「これで逃げ回ることがなくなった。やれやれという気持ちでホッとしました」。しかし、終戦で生活が楽になった訳でもなかった。空襲の恐怖からは逃れることができたものの、戦時中以上に食べ物や着るものが少なくなり、辛い日々が続いた。「芋のつるや粟などをご飯に混ぜて食べたし、着る物も継ぎ足しだらけの服だった。けれど、みんなが同じだったのである意味、楽だったのかも」と、苦しい生活の中にも死から逃れられた安堵感も多少はあった。

終戦から約半年後の1946年3月、切目川駐在所に勤務していた白浜町出身の警察官だった清さんと結婚。夫の清さんも戦争を体験した1人だった。大正9年に召集され、和歌山の歩兵第61連隊に入隊し、2度にわたって中国へ渡った。結婚後、清さんはシヅヱさんに中国での出来事についてはあまり話したがらなかったが、「頭に手りゅう弾を巻いて、相手に突撃しなければならないまで迫ったことがあった。その時、若い兵隊たちは気が狂ったようだった」という話を聞いたことは覚えている。日本国内の戦況が厳しくなったために帰国を命じられ、その作戦は実行されることなく、清さんはすんでのところで死を免れた。

結婚後は由良、川中、丹生、湯川、塩屋などの駐在所を転勤しながら生活した。清さんの給料は安かったが、住む場所があり、お金の苦労はそれほどつらいとは思わなかった。ただ、正月になると毎年、清さんが大きな日の丸の旗を取り出し、部屋の中の壁に飾ったことだけは閉口した。「戦争が終わって何年も経ったのに、いまさら日の丸の旗を飾らなくても…。負けた日本の旗を見るのがつらい」という思いが込み上げたという。最愛の清さんは今から11年前の2009年1月に94歳で亡くなった。

終戦から今年で75年。「いまの人たちは何の不自由もなく結構なもの。戦争はつらく苦しいだけで、二度としていらん。もうこりごり。いまの平和はありがたいこと」。