県立博物館施設活性化事業実行委員会と県立博物館主催の現地学習会「歴史から学ぶ防災―災害の記憶を未来に伝える―」は1日、御坊市中央公民館で開かれた。同委員会は県内各地に残る災害記録や文化財の保存状況について調べており、研究結果を地域に伝え情報として還元するため現地学習会を開いている。ことしは日高地方と那智勝浦町が対象。先人が子孫のために書き残した貴重な記録を、約90人の参加者は熱心に学んでいた。
 発表は5人が行い、印南中教諭で長年生徒と共に日高地方の津波被害について研究している阪本尚生さんは、江戸時代末期に北塩屋でまんじゅう屋を営んでいた清七という住民が「稲むらの火」で知られる安政地震の津波について書き残した「つなみ心得咄し」で発表。30年ほど前に発見された古文書で、阪本さんはたまたま美浜町の図書館で資料を見つけて興味を持ち、現代語に訳した。清七は名屋浦で津波に遭って当時名屋にあった船付き明神という神社に逃げ、足元1尺(30㌢)まで水が来たが松の木の枝に登って難を逃れた。波は茶免橋辺りまで上ってから引き始めたという。その後、日高別院へ逃げて本堂に上がると数百人の人々が念仏を唱えていた。その夜にまた大きく揺れ、「本堂もゆりつぶすほど」だったという。清七は「このままではとても命はない」と思い、実家の家族に一目会いたいと小松原へ行って母や兄と会った。翌日ようやく妻子のいる自分の家へ帰り、無事だった家族と顔を見合わせてものも言わずに泣くばかりだった。阪本さんは「この記録からは津波のイメージがよく分かる」とし、「清七は行き当たりばったりに行動しているようだが、『てんでんこ』ということを心得ていればもっと効率よく避難できていたかもしれない」と話した。
 そのほか発表された内容は、徳川吉宗が紀州藩主時代に日高川河口に築いた「浪除堤(なみよけづつみ)」、御坊市薗の天性寺に残る板に記された安政地震津波の記録、美浜町吉原の松見寺本尊「宝冠釈迦如来像」についての考察、美浜町浜ノ瀬の安政地震津波の石碑と日高川町若野の各地に残る明治大水害の石碑について。浜ノ瀬の碑の内容を解説した県立博物館主任学芸員の前田正明さんは、「地域のリーダーが高い防災意識を持っており、それが今に受け継がれているように思う。防災の記憶は、地域で積極的に残そうとしないとなかなか残らない」と話した。発表後には希望者を対象にワークショップも行い、さらに深く地域防災を考えた。