昭和20年8月、日本が建国初の敗戦という局面、軍民合わせて死者300万人以上という総力戦を終わらせるにあたり、政府内では連日、不眠の議論が続けられていた。そのさなか、米英中(中華民国)の三国首脳は葉巻をくゆらせ、ソ連も加えて、大戦後の世界の分割を話し合っていた。ソ連はヤルタ会談の密約通り、独降伏から3カ月後の8月9日、日ソ中立条約を一方的に破棄して満州に侵攻、さらに南樺太、千島列島への攻撃を開始した。
 南樺太では、天皇陛下が国民に戦争終結を告げた15日以降もソ連軍が進攻。真岡(まおか)という町の郵便局の電話交換手の女子職員は、決死の覚悟で業務を続け、敵に追い詰められた20日、「皆さん、これで最後です。さようなら。さようなら」という通信を残し、12人のうち10人が服毒自殺を図り、9人が死亡した。
 また、千島列島東端の占守島(しゅむしゅとう)でも、終戦3日後の18日にソ連軍が侵攻。満州から振り向けられた関東軍精鋭の守備隊は、天皇陛下の終戦の詔勅を受け、戦車の砲弾をすべて地中に埋め、武装解除の準備を整えていた。それでも、攻められれば自衛のために戦わねばならない。敵は通常の艦砲射撃と空爆もせず、まさに不意打ちの上陸だったが、日本守備隊は圧倒的勝利を収めながら、最終的には降伏させられた。
 ソ連の卑劣極まる終戦後の侵攻で犠牲となった真岡郵便局の女子職員、戦死した占守島の兵士ら、沖縄以外の地上戦で犠牲となりながら、多くの日本人に忘れ去られた人たちがいる。
 終戦から69年、今年も戦争経験者に話を聞く取材を進めている。早晩、あの戦争は完全な歴史になってしまう。その前に、お名前とともに記憶を聞かせていただき、記録(記事)にしておきたい。    (静)