「自宅等ハ夕景ニ帰ッテ来タラ屋根ニ穴数ケ所アキ ミジメデアリ 今晩ハ神谷ノ壕ノ中デ泊ル 本当ニ今日ハエラカッタ」。昭和20年7月28日、由良町糸谷の海岸に停泊中の海防艦がグラマン延べ八十数機の波状攻撃を受け、乗組員99人が亡くなった。のちに白崎村議会議員を務めた平井直勝さんが、この長かった一日を日記に書き留めている。
 海防艦は戦況悪化に伴い小型化・簡略化の改良が重ねられ、壮絶な最期を遂げた第30号は当時最新の丁型。20年5月に由良へ回航した。約160人の乗組員は2カ月余りの滞在中、地元の人たちとの親交もあり、当時10歳だった阪元昭良さん(78)は乗組員と仲よくなった。何度か艦へ遊びに行ったこともあり、7月28日は戦闘が始まる直前まで艦にいたという。
 機銃や高角砲の台に座らせてもらい、帰りにはお菓子の入った袋をみやげに持たせてくれた。「ボク、また明日も来いよ」。戦争の怖さを知らぬ少年の笑顔に、死を覚悟した乗組員らはつかのま、心が和み、ふるさとに残してきたわが子を重ね合わせたのだろう。
 数時間後、糸谷は死の海となり、阪元さんは乗組員との約束を果たせなくなったが、いまも時間があれば紀伊防備隊と海防艦の犠牲者の鎮魂碑を訪れ、人知れず周囲を清掃して手を合わせている。
 小紙はきょうから、戦争体験者に話を聞く連載がスタートした。ことしは満州の部隊に配属された陸軍の工兵、海軍の戦艦大和の乗組員らのほか、由良の海防艦の戦闘を目の当たりにした阪元さんらに話をうかがった。産業戦士として日本が勝つと信じて家族を守り、生き抜いた平井さんの日記も含め、まぶしい記憶の光を語り継いでいただければと願う。(静)