15日は終戦記念日。 国家のすべての人的、 物的資源を投入した総力戦は、 昭和16年12月の開戦からわずか半年後には形勢が逆転、 戦況の悪化とともに国民の食糧・物資の窮乏が深刻さを増し、 最終的に日本は軍人、 一般合わせて300万人以上が犠牲になったといわれている。 20年8月15日から67回目の夏を迎え、 平和を願い、 若い世代に向けて重い口を開き始めた年老いた戦争経験者たち。 市内島に住む元陸軍病院看護婦の女性に話を聞いた。
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戦争体験を語る上村さん
 日高郡丹生村(現日高川町)山野出身の上村ナオさんは、大正6年9月27日生まれの94歳。山野尋常高等小学校を卒業後、県立日高高等女学校へ入学した。卒業後は1年間、大阪へ行儀見習いの奉公に出て山野へ帰ってきたあと、昭和14年4月、21歳のときに大阪陸軍病院赤十字病院が臨時看護婦を募集していることを知り、親に内緒で受験、合格した。
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陸軍病院に勤務時代の上村さん
 通常、看護婦養成所の教育は3年間だが、国家総動員法が制定され、日米開戦が目前に迫っていた当時は2年半で修了。16年10月、軍属の日本赤十字社甲種救護看護婦に合格し、卒業と同時に陸軍から兵士と同じように召集令状が届き、堺市金岡の大阪第一陸軍病院に配属された。
 病院の建物は急ごしらえのバラック。上村さんら看護婦は近くの民家に下宿しながら病院へ通い、個室(重症患者)と大部屋(軽症患者)を行ったり来たりの毎日。マレーシアなど南方から送られてきた傷病兵が多く、もうろうとした意識のなか、「天皇陛下万歳」とつぶやく人や、「皇居の方へ足を向けて寝かさんといて」と懇願する患者もいた。
 病院からは毎日、全国の軍司令部に患者の容体を知らせる①軽症②重症③危篤④死亡の電報が送られた。ある日、死亡の電報を受け取った両親が病院まで息子の遺体を確認に来た際、何十人も並ぶ安置所で1人ずつ白い布をめくっていくと、わが子の遺体の右太ももの肉がネズミにかじられていた。その場にいた上村さんは慌てて赤チン(赤い消毒液)と包帯を取りに走り、「すみません」「申し訳ありません」と謝りながら、骨が見える右足に赤チンを塗って包帯を巻いた。「その兵隊さんのお母さんは泣き続け、お父さんも何もいいませんでした。遺体に赤チンを塗っても意味はないんですが、看護婦としてせめてもの気持ちを表すための行動でした」という。
 その後、東京の病院に転属となり、戦争末期には人道に反する病院を狙った空爆もあったが、20年8月15日まで生き延び、玉音放送は東京の赤十字病院で聞いた。「やれやれ...」と思った。戦後は浦賀沖に停泊する船の病院に婦長として勤務。コレラや腸チフスなど感染症にかかった海外からの引き揚げ者を隔離、治療する病院船だったが、上村さんは船酔いに耐えられず、30歳で依願退職。山野へ戻った。
 美浜町浜ノ瀬出身の夫、庄一郎さんとは見合い結婚。御坊のまちで八百屋、喫茶店、ビリヤード場などを経営し、最終的には現在の内本町の南側で「青雲荘」という旅館を営んだ。4歳上の庄一郎さんは10年前に88歳で他界したが、上村さんは60歳を過ぎて俳句を始め、「俳句の楽しさと友達に支えられ、これまで元気に長生きできました」と笑顔。先の広島・長崎の平和祈念式典のニュースには、「二度と戦争をしないでと願って、テレビの前で手を合わせました」という。