昭和20年の終戦から15日で67年。戦争の体験を語ることができる人は少なくなっているなか、市内島に数々の悲惨な現場をくぐり抜けてきた女性がいる。90歳の坂本ミチヱさんは、22歳で満州勤労奉仕隊に参加し、帰国後は龍神の実家上空でB29が撃墜される瞬間を目撃、終戦間際には和歌山市の知人が大空襲の犠牲となった。「あの戦争を知るのは前線の兵隊だけじゃない」と、銃後の戦争体験者として反戦平和を訴えている。
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和歌山県から参加した満州勤労奉仕隊の女性ら(右から3人目が坂本さん)
 坂本さんは大正11年2月、龍神村宮代で生まれ、尋常小学校を卒業後は20歳まで和歌山市内で和裁を習っていた。昭和12年12月の日中戦争南京陥落では和歌山でも「聖戦大勝」を祝うちょうちん行列が行われ、「中国との戦争が始まると、旧県庁の庁舎が兵舎になって、スーツ姿の市役所の職員さんらが行き来していた通りも、各地から召集された軍人ばかりになり、戦争に突き進んでいくきなくさい時代の空気を感じました」と振り返る。
 龍神村の実家に戻っていた19年2月、中国大陸の満州勤労奉仕団に自ら応募した。宮代地区からは、3つ下の妹のワカヨさんや友達ら女性ばかり5人が参加。県全体で70人の男女が送られた。現地に着いた当初は氷点下30度にもなる極寒の真冬。馬小屋のような宿舎で寝起きし、雪がとけてからは原野を開拓して畑をつくり、ジャガイモや大豆を栽培した。5月にはヨーロッパでナチスドイツが降伏。その情報は満州にも届き、坂本さんは「ドイツは同盟国なのに、これからどうなるんやろ...」と不安を覚えた。
 日本に戻り、20年5月には龍神村殿原の山にB29が墜落。搭乗員11人のうち、4人はパラシュートで脱出したが、7人は即死した。このとき、地域の女性のリーダー的存在だった坂本さんは、5、6人の女性とともに竹やりを持って現場を調査。機体の破片やバラバラになった遺体、食料などが散乱しており、「チョコレートや缶詰がいっぱい落ちてました。のどから手が出るほどほしかったけど、敵の物をとるわけにはいかず、みんな黙って生存者の確認作業をしていました」という。
 終戦直前の7月9日、和歌山市で一晩に1200人が亡くなる大空襲があった。後日、市役所近くにあった和裁の先生宅を訪ねると、家は跡形もなく消え、先生の息子は爆風で吹き飛ばされ、遺体も見つからない状態だった。また、坂本さんらと入れ替わりで満州へ渡った第3次奉仕団は、戦後、押し寄せてきたソ連兵に捕まらないようバラバラになって帰国しようとしたが、70人のうち30人の女性が殺害されたり、飢えや病気で死亡した。
 坂本さんは6年前、平和を願って平和憲法を守るための署名運動を行った。1人で自転車に乗って市内全域、一軒一軒を訪ね、1526人分の署名を集め、自民、民主、社民、共産の各政党に送った。終戦から67回目の8月15日を前に、「私は戦争でいろんな体験をしましたが、どれも死に直面するようなことはなく、満州では振り返れば楽しかったことも少なくなかった。しかし、もし自分が第3次隊のメンバーだったなら、もし終戦前に和歌山市に住んでいたならと考えると、胸が締め付けられるような思いです。 いま、 日本は周辺国と領土をめぐって小競り合いが続いていますが、戦争だけは絶対に繰り返さないでほしいです」 と話している。