日高中津が全国の分校で初めて、春のセンバツで甲子園出場した1997年の4月に入社した。分校フィーバーのときはまだ社会人になる直前だったので肌で感じていないが、その年の夏の和歌山大会から先輩記者に教えてもらいならが紀三井寺球場に足を運ぶ機会が増え、球児の熱戦を目の当たりにした。その年の決勝は日高中津、1年おいて99年から南部が3年連続、以降も日高中津、国際開洋第二、日高と6年連続で決勝に進出。その後も含め、残念ながらあと一歩のところで甲子園切符は手にできなかったが、とくに日高はあとアウト1つ、マウンドにピントを合わせ、歓喜の選手たちの姿を撮りこぼすまいとカメラを持つ手に力が入ったのを昨日のことのように思い出す。

 「僕が取材にいくと勝てない」「毎年かつ丼を食べて負けているので、今年は別のものを食べよう」、先輩記者たちと決勝戦の取材へ向かう車の中で「今年こそは」と話したのも懐かしい。振り返れば、2001年春のセンバツで南部が甲子園に出場して以来、春夏通じて地元校は20年遠ざかっている。最近は紀三井寺球場に行く機会も少なくなったが、球児たちの全力プレーはテレビや紙面を通じて見させてもらっている。

 第103回の今年も、9日に開幕した。昨年は代替大会だったので、2年ぶりの本大会。コロナ禍で練習試合が制限されるなど調整は難しかっただろうが、本紙の地元7校チーム紹介からも選手たちの熱気が伝わってくる。4年前の17年、紀央館以来、昨年も含めて3年間決勝の舞台に地元校が立っていない。勝敗がすべてではないが、やはり「今年こそは」に期待し、紙面をにぎわせてくれることを楽しみにしている。(片)