このところ、和歌山県に関する本を立て続けに読む機会があった。記事でも紹介した「和歌山あるある」と「日本文学全集23 中上健次」、そして有吉佐和子の「私は忘れない」
 和歌山あるある」は、「和歌山県のサンショウの生産量は国内の80%」「納豆の消費量は全国最下位」「人口10万人当たりのカラオケボックスの数は日本一」など豆知識もあるが、「どえらい、でぇらい、がいな、やにこい、ころもし、てちこう、ものごい...凄いという意味の言葉を時と場合によって使い分ける」など、県外への紹介より地元民が読んで笑えるマニアックなネタが多い。共感したのは「紀北県民は紀南のことを知らないし、紀南県民も紀北のことを知らない」という項目。南北に長く各地が山で隔てられる和歌山県は、北と南で県民性も文化も違い、大阪や京都には詳しくても地元以外の県内各地のことはまったく知らないという人が多い
 和歌山市出身の有吉佐和子、新宮市出身の中上健次は、作風もテーマもまったく異なる。誰にとっても関心の高い普遍的なテーマを軽やかな筆致で描き上げる、有吉佐和子。人間の根源的な生命力がむき出しになったようで、壮絶な迫力に満ちた中上健次。もちろんこれをもって紀北と紀南の違いを単純に論じることはできないが、大阪に近いためか合理的で社交的な面のある紀北県民、素朴で冒険心に富んだ紀南県民の性質を象徴するようで興味深かった。中紀の当地方は、紀北や紀南について必要がなければあまり知ろうとはしないが、どちらにも知らないのはもったいない宝物があるかもしれない
 異なる性質や文化を併せ持つ和歌山県。ふと、南北に長く多様な文化を擁する日本、膨大な文化がせめぎ合う世界の縮図でもあるように思えた。   (里)