「今日も暖かい運動日和と喜んでいたが終頃少し雨が来た。一般の綱引きだけ見ること出来ず残念だった」。清川小学校で保管されていた1932年(昭和7)から41年(同16)の学校日誌の中の、昭和7年度11月20日の一文の一部である。90年前は11月に運動会をしていたのか、当時から保護者の綱引きが行われていたんだ、天候に左右されるのは今も昔も変わっていない、ほんのわずかな文章でも,ほのぼのした光景が浮かぶ。みなべ町文化財審議会の上村浩平委員長が、冊子「学校日誌が語る昭和初期 日本は そして郷土は」を発行した(既報)。

 昭和9年度10月、校長先生が児童を伴って虎が峰へ登山し、マツタケを腹いっぱい食べて下山した様子とともに「今日の一日、生徒と教師のへだては全くない。然し、時々放ってやる、話し相手になってやる、これが本当の教育ではあるまいか」とある。児童を思う教師の気持ちが伝わってくる。一方で、昭和12年7月に日中戦争が始まって以降は応召兵の送別式が校庭で行われた記述が増えていく。出兵する兵士を児童はじめ多くの村民が見送る。不自然な光景も続けば普通になっていく。上村さんが「非日常が日常へと変貌していく様子が見て取れる」と話されたことが印象に残る。

 今はどうか。新型コロナウイルスとの戦いの中にある。マスク励行、ソーシャルディスタンス、外出自粛、人々の行動は制限を余儀なくされ、全国ではまだ2学期を迎えられない子どもたちもいる。しかし、元の日常は必ず戻ってくる。近い将来の学校日誌には、感染対策に余計な気を使うことなく、児童と先生が以前のように触れ合う日常が記載されるだろう。今はもう少し我慢だが。(片)