写真=保養所で療養していた当時の坂本さん(後列右から5人目)

戦死した兄の敵を討つ

みなべ町埴田、坂本健三郎さん(96)は、戦死した兄のために18歳で志願し、海軍に入隊。移動中の汽車で艦載機の機銃掃射を受けながらも生還した、先の大戦を知る生き証人の一人。

1924年(大正13)9月1日、日高郡下山路村(現田辺市龍神村)甲斐ノ川に、亀吉さんとマサノさんの9人きょうだいの三男として生まれた。37年に甲斐ノ川小学校尋常科、39年に同高等科を卒業。1年ほど山仕事をして、40年から神戸電機制作所尼崎工場に入社した。大きな工場で、寄宿舎と工業系の青年学校が併設されており、午前中は授業を受けて工業英語、数学、製図などの勉強をして、午後から工場で働いた。モーターや蒸気エンジンを作る仕事で、戦時中だったが軍事訓練を行うことはほとんどなかった。

43年(昭和18)、転機となる悲しい出来事があった。この年2月に海軍に入隊していた長兄が、インド洋で交戦中に戦死。訃報が届いた当時、坂本さんは18歳で「兄の敵とったる」と志願兵となることを決意。「戦争に行きたい」と両親に相談したが、次兄が出生後すぐに亡くなっており、長兄の死で坂本家の跡取りだったことから、「行くな」と猛反対された。「あの当時、戦争で死ぬことが怖いとは少しも思っていなかった。戦争に行くのが当たり前でしたから。何より兄の敵を討ちたいという思いが強かった」。なんとか両親を説得し、田辺で徴兵検査を受けて合格。約2カ月後の44年1月、海軍航空整備兵として採用され、神奈川県の相模野航空隊に入隊した。4カ月間、陸上戦闘のために編成した「陸戦隊」様式の訓練をみっちりと受けた。

海軍の新兵訓練は1班12、13人の団体行動で、常に連帯責任。毎日朝から晩まで訓練に明け暮れ、1人でも遅れるとその夜、同じ班の新兵が集められ、壁に両手をついて突き出した尻を「軍人精神注入棒」と書かれた桜の木でたたかれた。跡が残らないよう、たたいた後にたらいの水をかけられたことをはっきりと記憶している。特に厳しかったのは、寝床のハンモックを素早くかけて元に戻す吊床訓練。毎晩寝る前に5~10回繰り返し、遅い者はハンモックを担いで運動場を1周。「はじめの1カ月は毎晩、ハンモックの中で泣いていました」と振り返る。

6月には厚木航空隊に配属。整備兵として赴任したが、飛行場に新型の航空機はなく、エンジンの分解と組み立て訓練をする毎日。零戦の形をした見せかけの木型飛行機が10機ほど置いてあり、空襲警報が鳴ると掩体庫に入れたが、実際に空襲を受けることはなかった。11月、健康診断で心臓弁膜症と診断され、鳥取県三朝温泉にある保養所へ移され、約5カ月は療養の毎日。45年4月、回復して現場復帰するため広島の呉へ向かう途中、九死に一生を得ることになる。

 

終戦直前の広島で凄絶体験

写真=鮮明な記憶をもとに当時を語る坂本さん

戦況が極めて悪化していた1945年(昭和20)、前年から本格的に始まった本土空襲により、日本は大都市を中心に甚大な被害が出ていた。広島も例外ではなく、3月から7月にかけて数回行われた呉軍港空襲など内地への攻撃は激しさを増していた。

4月、三朝温泉の保養所から復員先の呉へ向かうため、倉吉から山陰本線で西へ、120人ほどを乗せた汽車に揺られていた。大山の手前で突然、「ドカーン」という耳をつんざく爆音と衝撃に襲われ、汽車が急停車。艦載機から先頭の機関車にロケット弾が撃ち込まれていた。さらに2両目と4両目にもロケット弾が命中、大破。2機の艦載機が交互に機銃掃射を繰り返してきた。1両目に乗っていた坂本さんは奇跡的にロケット弾の命中は免れ、機銃掃射の一瞬の隙をついて外に出て、汽車と線路の間に潜り込んだ。容赦ない機銃攻撃は約20分繰り返され、腹ばいになってじっと我慢していた坂本さんは祈るような気持ちで、時間がとても長く感じられたという。ようやく敵が飛び去ったあと汽車の下から這い出ると、地獄のような光景だった。ロケット弾にやられたり、外に出て機銃の標的になったのだろう、内臓が飛び出した30人ほどの死体が無残に倒れていた。汽車の中に入ると、座っていた横の通路に置いていた荷物を入れたトランクに、機銃の弾が数発命中していて再び背筋が凍りついた。一瞬の判断が生死を分けたのだ。「そのまま車内に残っていたら、おそらく死んでいたでしょう。死ぬのは怖くないと思っていましたが、この時はやっぱり怖かった」。亡くなった人たちを弔う間もなく、バスへ乗り込み倉吉へと引き返した。

1週間後、再び倉吉から広島経由で呉に到着し、呉海兵団の兵舎に入った。軍港の呉は何度も空襲に遭っており、崩れた赤レンガが至るところに散乱。爆撃の激しさを物語っていた。坂本さんらはレンガの片づけをする毎日となった。8月6日、朝から暑かった。半袖シャツで作業をしていると、「ピカッ」と稲光がした。しばらくすると北西の方向に煙が上がり、キノコのような形になったのが目に焼き付いている。その時はそれが原爆だとは分からず、大きな爆弾が落とされたのかと思った。翌日、白布と手甲を支給され、意味が分からないまま着用した。放射線を反射するためのものだと聞かされたのは少ししてからだった。

終戦も呉で迎えた。玉音放送はよく聞き取れなかったが、戦争が終わったと聞いて、「これで家に帰れる」と若い者みんなで喜んだ。しばらくは残りの復旧作業や残土処理を続けた。毎日朝晩、隊列を組んで行進していたが、途中に朝鮮の人が住んでいた町があり、石を投げられたこともあった。終戦から2カ月後の10月、除隊となり、4日かけて甲斐ノ川の自宅に着いた。両親が喜んで迎えてくれたことがうれしかった。食べ物のない時代だったが、どこで調達したのか、赤飯や尾頭つきの魚で祝ってくれた。

戦争のことを忘れるため、武運長久の日章旗や千人針の腹巻などはすべて焼いて捨てた。しかし、76年経っても忘れることはない。「当時は戦争に行くのが当たり前でしたが、もう二度とすべきことじゃない」。短い言葉に思いを込めた。