
米軍機が投下した爆弾で51人もの命が奪われた旧日高郡松原村(現美浜町)浜ノ瀬の空襲から79年を迎えた22日、同地区住民会館で空襲の体験者から話を聞く集いが開かれた。体験を話したのは元区長の寄住敏和さん(86)、井澗勝子さん(88)ら4人。約30人の参加者を前に〝あの日〟を振り返り、生死を分けた運命の瞬間の記憶、平和への感謝の思いなどを語った。
集いは御坊商工(現紀央館高校)地歴・社研部1986年度卒業OB会(前山輝代代表)が主催。高校時代、同部顧問の故中村隆一郎さん(元同校校長)とともに日高地方各地の空襲被害を調査した前山さんと、当時の顧問だったOB会事務局の小田憲さんが企画し、体験者の寄住さん、井澗さん、中前明さん(93)、浜口定子さん(89)が話をした。
1945年(昭和20)6月22日は日高地方各地で空襲があり、浜ノ瀬のほか、現在の御坊市塩屋町北塩屋、名屋にも爆弾が落ち、民間人71人と軍人9人の計80人が死亡した。
浜ノ瀬では午前8時25分ごろ、1機のB29が250㌔爆弾21発を投下。地元の人や御坊から避難してきた人、近くの軍需工場で働いていた学徒動員、女子挺身隊の生徒ら100人以上が松林の中の砂地の防空壕や大木の根本付近に集まっていたところへ着弾し、34人の区民と10人の学徒動員の学生ら計51人が犠牲となった。
当時7歳だった寄住さんは爆弾が落ちる直前まで防空壕へ入っていなかったが、「空襲や、はよ防空壕へ入れ!」と叫ぶ声を聞いて隣組共同の防空壕へ逃げ込んだ。その瞬間、凄まじい地響きと爆音、爆風に襲われた。「あのとき、防空壕へ入れと叫んだのが誰かは分かりませんが、あの声を聞いてなかったら、私は外で爆弾の破片にやられていたでしょう」と振り返り、いまも思い出すたび声の主への感謝の気持ちで胸がいっぱいになるという。
浜ノ瀬の空襲の約2週間前には、御坊市薗の源行寺の本堂と鐘楼の間に1㌧爆弾が落ち、庭の防空壕に逃げ込んでいた寺の家族と近所の人ら11人が亡くなった。井澗さんもそれまでは空襲警報のたびに家の前の防空壕へ避難していたが、源行寺の爆撃以降は「防空壕は危ない」という話が広まり、松林へ逃げるようになっていた。
「でも、6月22日は空襲警報が鳴ったとき、頭が痛く、一緒に暮らしていた祖母に『(松林へ)行きたくない』といったら、『死ぬときは家族一緒の方がいい。行きたくないなら行かんでいい』といわれ、祖母と一緒に防空壕へ逃げて助かったんです」。亡くなった近所の人たちも、防空壕は危ないと考え松林へ逃げていた。「祖母のひとことで命拾いをしたのはまさに運命でした」と涙を浮かべ、言葉を詰まらせた。