源行寺への爆弾で広がった恐怖

 1945年(昭和20)6月22日朝、旧御坊町名屋(現御坊市名屋)、旧塩屋村北塩屋(現御坊市塩屋町北塩屋)、旧松原村浜ノ瀬(現美浜町浜ノ瀬)の3カ所に爆弾が投下され、民間人68人と軍人9人の計77人が亡くなった。この数字は対米戦中に日高地方で起きた全空襲被害の70%。浜ノ瀬では空襲警報を聞いて松林に避難した住民、学徒動員の生徒ら51人が死亡した。たった1回の局地的空爆がこれほど多くの命を奪った背景には、約2週間前、御坊のお寺に落ちた爆弾の被害が人々に計り知れない恐怖を与えていたことも大きかった。

 浜ノ瀬の井澗勝子さん(88)は1935年(昭和10)8月30日、カナダで8人きょうだいの5人目に生まれ、4歳から浜ノ瀬の祖父母の家で育った。家族は祖父母と兄、姉の5人。空襲があった45年6月当時は9歳で、松原国民学校の4年生だった。日高地方はその年の5月以降、空襲が多くなり、勝子さんも警報のたびに家の庭の防空壕へ避難した。

 6月7日朝、勝子さんは隣の家の一つ上の親友君代さんと2人で歩いて学校へ行く途中、空襲警報が鳴った。家へ引き返す前に、飛行機をやり過ごそうと近くの松林へ逃げ込んだ際、大きな音が聞こえ、西川の対岸に爆弾が落ちる瞬間を目撃した。「危ない」。2人で頭を抱えて身をかがめると、「ドーン!」という凄まじい爆発音と地響きがした。勝子さんと君代さんはその場でひっくり返るほどの衝撃を受け、家まで走って逃げ帰った。爆弾は家の近くを流れる西川の向こう側、直線距離で540㍍ほど離れた御坊町薗(現御坊市薗)の源行寺へ着弾した。

 御坊商工高等学校(現紀央館高校)社会研究部顧問を務め、同部と地理歴史部の生徒たちと空襲被害を受けた地域で聞き取りを行った故中村隆一郎氏(元同校校長)の調査によると、源行寺に落ちた爆弾は米軍の資料や近所の人の証言、被害の状況などからも、B29が寺の近くにあった軍需工場を狙って投下した重さ2000ポンド(約900㌔)の爆弾、通称「1㌧爆弾」だったとみられている。

 1㌧爆弾には約430㌔の火薬が詰まり、炸裂すれば地表に幅15㍍、深さ11㍍の穴をつくったといわれる。源行寺では、境内の防空壕へ逃げ込んだ湯川憲文住職の妻と3人の幼い子ども、警防団の男性、近所の美容室の女性と子どもら計11人が即死した。

 現住職の湯川憲治さんによると、境内に立つ高さ約5㍍のタブノキは、爆風で2㍍ほどから上の部分がなくなり、戦後はそこから横に曲がって伸びた。昭和の時代までは爆風で傾き、石が欠けた墓がいくつもあったが、現在はほとんどなくなり、爆弾の爪痕はほとんどみられない。

 源行寺の衝撃は大きく、それまで「安全」とされていた防空壕に対する認識は覆り、逆に「防空壕は危ない」といううわさが口伝えで広まった。空襲警報が鳴っても防空壕へ入らず、浜ノ瀬では松林へ避難する人が日増しに増え、御坊の源行寺近くから西川を越え、浜ノ瀬の松林まで逃げてくる人もいた。

 日高大空襲の22日は朝早くから空襲警報が鳴り、近所の人たちが連れだって松林へ避難を急いでいた。勝子さんも源行寺被弾の翌日から松林へ逃げていたが、その日はちょっと頭が痛かった。祖母のアサさんに「おばあちゃん、きょうは頭が痛いから(松林へ)行きたない」というと、アサさんは「ほんなら無理して行かんでもええ。どうせ死ぬなら家族一緒の方がええわ」と笑い、勝子さんはアサさんと家の防空壕へ入った。

 当時、兄は静岡の商船学校へ通っていたため家にはおらず、日高高等女学校の姉は学徒動員先の工場へ出勤。家には祖父母と勝子さんがいたが、祖父はいつものように防空壕へは入らず、離れの納屋でわらぞうりを編んでいた。

安全と信じた松林が地獄に

 6月22日の朝、煙樹ケ浜の松林の広い範囲に100人以上が避難し、砂地の防空壕や大きな松の木の根元周辺に身を寄せていた。午前8時25分ごろ、B29が250㌔爆弾21発を投下し、多くが新浜地区と浜ノ瀬地区の間の「切れ戸」周辺、現在の浜ノ瀬住民会館の近くに着弾。家の中にいた人も含めて34人の区民と、10人の学徒動員の生徒ら51人が犠牲となった。

 中村氏の調査によると、その日の朝は煙樹ケ浜の沖合でB29と日本の戦闘機が空中戦を展開していた。被弾して煙を上げ、海に墜落したB29もあり、松林へ避難していた人たちはその様子を興奮しながら眺めていた。そのとき、目の前を北上していた数機のB29のうち1機がUターンして戻ってきたかと思うと、ポロポロッと黒い粒を吐き出した。その粒はシャー、ガラガラッと音を立てながら斜めに降ってきた。誰かが「爆弾や!」と叫び、人々が飛ぶように身を伏せた瞬間、大音響とともに激しい地響きがした。母親の背中で息絶えた赤ん坊、松にもたれたまま上半身を吹き飛ばされた男性、焼けるように熱い砂利の上をぶら下がった腸を抱えて這いずる人…。その惨状は地獄としかいいようがなかった。

 祖母のひとことで松林へ行かなかった勝子さんと家族は助かったが、勝子さんの親友の君代さんは母親、姉と3人で松林へ行き、君代さんだけが無傷で済んだ。松林に並んで身を伏せようとした際、耳が不自由だった姉は君代さんに場所をかわってほしいといい、君代さんとかわった場所で破片の直撃を受けて即死。母親も背中に破片が直撃したが、命は助かった。

冊子 「語り継ごう 日高の空襲」 に掲載されている中村氏作成の6月22日の空襲被爆略地図

 君代さんはそのむごい現場に耐えられなかったか、血まみれの姉と母を置いて1人で小学校の方へ向かって歩いた。途中、瀕死状態の近所のおじさんから「君やん、痛いよ、助けてよ…」と声をかけられたがどうすることもできない。頭は砂をかぶって真っ白、服も破れ、はだしで歩いていた君代さんを見かねた女学校の生徒が呼び止め、君代さんはそのお姉さんが腰にぶら下げていたわらぞうりをもらった。

 午後になって、君代さんは母親と勝子さん宅を訪れ、井戸水で血や砂で汚れた体を洗い流した。その姿を見た勝子さんは、松林で大変なことが起きたことは分かったが、昨日まで元気だった近所の人が何十人も死んだことは知らなかった。のちに、自分の家を囲む5軒の家のすべてで犠牲者が出て、計8人が亡くなったことを知り、背筋が冷たくなると同時に、祖母のひとことや妹の身代わりとなって亡くなった君代さんの姉を思い、運命のいたずらを感じずにはいられなかった。

 また、別の同級生の女の子は、空襲警報のたびに病気の幼い弟を抱いて隣の家の防空壕へ避難していたが、ある日、弟は防空壕へ逃げる途中、姉の腕の中で息を引き取った。勝子さんはその話を人から聞いて知っていたが、戦後、何十年もたって開かれた戦争体験を語る会で、その同級生が初めて自らの言葉で弟の死について語るのを聞き、その友達が深い心の傷を負っていたことを初めて知った。

 いま、煙樹ケ浜の美しい海岸と松林に、戦争の爪痕は何も残っていない。79年前、阿鼻叫喚の地獄と化した場所のすぐ近くの広場では、地域の人たちがグラウンドゴルフを楽しみ、勝子さんも天気のいい日はほぼ毎日、健康のために参加している。戦争だけでなく、南海地震や7・18水害など大きな災害も体験したこれまでを振り返り、「世の中がすごく変化した時代のなかで、物の不自由もありましたが、いまの平和は本当にありがたいです」と話している。