
筆者は昭和四十二年日高高校に入学し、そのとき校長であったのが著者の古川成美である。著者は昭和十七年広島文理科大学(現広島大学)を卒業すると翌年陸軍に召集された。召集令状を受け取った日は東條内閣が総辞職した日である。著者が向かったのは沖縄であった。
日本軍は沖縄を囮にして特攻機を集め、米艦隊を撃滅せんとする必死の作戦を敢行する。その現実を赤裸々に記したのが本書である。
昭和十九年十月十日米軍は沖縄への攻撃を開始。住民には北部への強制疎開が促されたが沖縄全土が焦土と化した。
沖縄守備は第三十二軍の牛島満中将。圧倒的な米軍と戦うため牛島中将は洞窟作戦を取った。上陸した総兵力は十八万、この沖縄作戦に参加した米艦船は一四〇〇艘を越えた。
昭和二十年四月一日、米軍は上陸作戦を開始。その様子を斥候兵が有線電話で伝えてきた。
「海面一帯は敵の舟艇のため海の色が見えません」。午前八時、海を埋めた船団から幾百列の舟艇が放たれ、戦車、車両、歩兵がまたたくまに沖縄に上陸。
著者は高射砲部隊に配属されていた。しかし、上陸してくる敵には一発も撃たなかった。「満を持して洞窟に勝機を待つ」という作戦のためである。ときどき壕から出て攻撃し、また壕に戻り、そしてまた壕から出撃するというものであった。しかし、その壕も次々に陥落し、あとは焼け野原を逃げ惑うばかり。逃げるのは兵士ばかりではない。幼子もいれば老人もいた。むごい傷口をあらわにして、頭を破られ、腹部を割かれ赤黒い肉塊となって地面にのけぞる屍が無数に横たわっている中を逃げた。著者の高射砲陣地にも至近弾が落ちた。突然、下半身に鋭い衝撃を感じ、左腿にしびれるような圧迫感を覚えた。機関砲の一つが左腿を貫通していた。治療は三角巾で縛るだけ。負傷者は遺棄されるのが沖縄の戦場。著者は傷の手当ても出来ないままに海岸線を逃げ惑う。一息ついたところでくぼ地を見つけ、そこにころげこんだ。しばらくして気を失う。気付くと米軍の戦車に載せられ運ばれて行くところだった。こうして著者の沖縄戦は終了したのであった。
この沖縄戦の死者は日本軍で一〇万を超え米軍も四万五千人以上であった。ひめゆり部隊をはじめとして民間人の死者は十六万人を超え、それは日本軍より多かったのである。これがこの沖縄の歴史の事実である。(秀)


