
かつて慶應義塾大学日吉キャンパスに、全長五㌔に及ぶ海軍の軍事施設があった。戦争末期、膨大な量のセメントを投入して堅牢な地下空間が作り上げられたのだ。
昭和十九年二月十五日、文部省の要請を受け慶應義塾は三田に陸軍、日吉に海軍が入ることが決定した。
旧海軍には大きく分けて四つの組織があった。海軍省、軍令部、鎮守府、そして連合艦隊である。このうちの連合艦隊司令部が、日吉の地下壕に入ったのである。司令部壕は地下三十メートルの地下深くに作られた。
連合艦隊司令部は旗艦と呼ばれる戦艦に司令部が通常置かれる。しかし、戦況悪化に伴い、旗艦は巡洋艦「大淀」を最後に陸上に上がることになったのである。その地下壕には、旗艦「大淀」と同等の設備が置かれた。内容は、作戦室、参謀私室、通信施設、司令長官室、下士官室、兵員室である。人員は、司令長官以下幕僚が約三十名、司令部付士官約五十名、下士官以下兵隊五百名であった。そして、ここから、全海軍への命令が発信されたのである。
暗号兵の平田一郎は十四歳で横須賀海軍通信学校へ入学し、六か月の速成研修の後、ここへ配属された。しかし、この地下壕が連合艦隊司令部だということは知らされなかった。地下壕の二段ベッドで寝食、食事は足らず、二十四時間勤務、四交代制、通信業務は六時間であった。電文は暗号でないものも多数あった。その一つに、「ワレ イマカラ ジバク」。特攻機からの電文であった。忘れ去れた戦争の断面が本著には多数書かれている。(秀)


