高城山城の存在が確認される決め手となった堀切を見学する参加者ら

 御坊市名田町楠井と印南町印南原、津井の境界に位置する高城山(たかじさん)城跡の発掘調査説明会が29日現地で行われ、午前と午後の部合わせて歴史愛好家ら約80人が参加した。文献に記載はあったが、その存在が確認されていなかった山城で、城の跡を示す防御用の堀切や曲輪(くるわ)、建物の柱穴などをじかに見て、城があった戦国時代に思いをはせていた。

 標高240㍍の高城山の頂上にある高城山城は江戸時代の書物の「紀伊続風土記」や「日高鑑」で掲載されているが、城の存在に確証がなかった。地元有志の高城山保存会では城の存在を信じ、10年ほど前に高城山の山頂部を伐採。その後も草刈りや高城山地蔵堂の管理を続けており、その思いを受けて先月上旬から御坊市と印南町教育委員会が発掘調査を行っていた。

 説明会では市及び日高郡6町埋蔵文化財保護行政事務協議会の専門職員川崎雅史氏が遺構や遺物について解説。山頂から西側の尾根筋で発掘された幅5㍍、深さ1・9㍍と推察とされる堀切は、敵からの攻撃を防ぐため岩盤を掘削して造られた人工の堀で、「これがここに城が存在すると言える決め手となった」とした。北側から東側には山腹を削った切岸や帯曲輪があり、斜面を駆け上がる敵に攻撃する投石も残っていた。南側には約200㍍先の地蔵堂付近に堀切状の遺構がみられることから、城の規模は東西約70㍍、南北約230㍍に広がる可能性があると指摘。出土品に中国製磁器の高級品もあり、単に見張りの兵が詰めた城ではなく、城主クラスが生活や儀式などを行ったと考えられる。文献では室町幕府奉公衆だった湯川氏重臣の四天王の1人とされる湊氏の居城とされるが、川﨑氏は「当時、湯川氏の領域が見渡せる位置に建てられた城で、同族以外に山城を築く例が少ないことから、湯川一族の城だったのではないか。それを湊氏が管理したという考え方もできる」などと考察した。

 高城山保存会の阪口義弘会長(77)は「城の存在が確認され、会員の長年の活動が報われた気持ち。この活動を若い世代にも伝えていきたい」と話していた。