癒やし、モダン、慰め

歌は〝時代を映す鏡〟。激動の大正から昭和にかけてもさまざまなヒット曲が誕生した。
のちに青春歌謡というジャンルを築いた御三家の一人、舟木一夫がうたうことになった「船頭小唄」は1921年(大正10)、野口雨情作詞、中山晋平作曲で「枯れすすき」のタイトルで発表され、23年(同12)に発生した関東大震災でふさぎ込んだ人々の心を癒やした。昭和初期には第一次世界大戦の戦後恐慌、世界恐慌の影響で日本の経済は悪化の一途をたどったが、一方で巷には輸入レコードが氾濫し、西洋音楽やジャズ、クラシックも聴かれるように。御坊では1928年(昭和3)、日高高等女学校同窓会と行路詩社の共催で、初の外国人によるピアノ・バイオリン演奏会が開かれた。29年(同4)には初代歌謡界の女王、佐藤千夜子が映画と同タイトルの「東京行進曲」をうたい、ジャズ、ダンサー、リキュル(洋酒)、丸ビルなどの言葉が散りばめられた歌詞はモダニズムの象徴となった。
当時、音楽を聴く家庭用の機器はラジオや蓄音機(フォノグラフ)。1877年(明治10)にアメリカの発明王トーマス・エジソンによって発明されたフォノグラフはその後、日本でも開発、販売されたが、昭和に入ってもまだまだ高価な一品だった。1935年(昭和10)、当時1000円で一般住宅が建てられた時代に、10万円の巨費と5年もの工期をかけて建築され、「日高御殿」と称された御坊市横町の旧中川邸には、西洋ムードたっぷりの客間に「OKADA’S」の刻印が入ったラジオ・フォノグラフがあり、いまもその姿を残す。
御坊市の日吉通で鎌田時計店を営む鎌田隆夫さん(78)によると、旧矢田村(日高川町土生)で時計店を始めた先代の父巳之助さんは時計と同じゼンマイを使う蓄音機の修理の依頼も受けていた。隆夫さん自身も蓄音機で童謡や浪曲を聴いたことがあり、「金属の針を使ったレコード盤の優しい音色に独特の趣があった」と懐かしむ。
そんな蓄音機から当時流れた平和の賛歌はまもなく、耳をつんざく、忌まわしい空襲の音にかき消されることになる。31年(同6)の秋、柳条湖事件から満州事変へと移る緊迫した状況の中、藤山一郎の「酒は涙か溜息か」が一世を風靡したが、日本は軍国の影が漂い、34年(同9)にはレコード検閲制度が開始。日中戦争が泥沼化する37年(同12)、ブルースの女王と呼ばれた淡谷のり子の「別れのブルース」が甘い歌声を響かせ、大戦に臨む若者の心を慰める一曲となった。
郷土の偉人が込めた願い

♪貴様と俺とは――日本が第二次世界大戦に突き進む直前の1939年(昭和14)7月にレコードが出された「同期の桜」(当時は戦友の唄)や、翌40年発売の「月月火水木金金」など、勇ましくも悲しい軍歌が響く時代から、しばらく時は遡る。
西川好次郎(よしじろう)氏は1903年(明治36)、旧寒川村(現日高川町寒川)の垣口家の次男として生まれ、旧川上村(同町川原河)の西川家の養子となった。のちに作詞家として懸賞歌謡界の巨星と呼ばれた人物。大正、昭和の50年間で70校にも上る校歌の歌詞を作り、日高地方でも日高高、旧御坊商工、南部高、御坊中、稲原中、松洋中、美山小、由良小など実に26校を手掛けた。自治体歌の作詞もあり、山田耕筰作曲の和歌山県民歌をはじめ、御坊市歌、美山の歌など。
西川氏が名声を得たのは、尋常小学校の訓導だった34年(昭和9)、皇太子(明仁上皇)生誕記念の「皇太子殿下御降誕奉祝歌」に応募した歌詞が、全国5800編の中から一等入選で採用され、東京音楽学校の作曲で発売されたことがきっかけ。全国の学校から作詞依頼が相次いだ。 西川氏が養子に入った西川家の娘の三重(かづえ)さんとの間には長男和良さんが生まれ、本業の教員では当時の川原河小、寒川第一小、上初湯川小で校長を務め、57年(昭和32)に依願退職。三重さんとともに川原河の自宅兼旅館「河鹿荘(かじかそう)」の経営に専念した。83年(同58)には文化庁から地域文化功労者表彰も受賞。90年(平成2)に死去。
長男和良さんはのちに大阪の証券会社で取締役を務め、64歳で退職。23年8月に83歳で亡くなるまでは月1回、妻八重子さん(79)=八尾市在住=とともに川原河を訪れ、河鹿荘の風通しをしていた。八重子さんによると、大戦が迫る37年(昭和12)に西川氏は応召、すでに詩人、作詞家で名を馳せていた西條八十氏と中国漢口(かんこう)で出会い、西條氏から「戦争が終わったら東京にいらっしゃい」と声を掛けられるほど、才能が認められていたそうで、「もし父が東京に行っていたらまた違う人生だったかもしれません。でも自然いっぱいの美山村にいたからこそ、美しい歌詞が書けたのでしょう」。
河鹿荘はいまも昔のままの姿を残し、隣接地には地元住民の寄付による顕彰碑が建つ。旧美山村役場時代、西川氏の偉業を記した美山村史の編纂室長だった地元の西川秀人さん(64)は「私が小学4年生の時、お弓神事(下阿田木神社)で、私が放った弓を拾う役をしてくれました。その時は普通のおいやん(おじさん)だと思っていましたが、やはりすごい人、郷土の誇りです」。
戦後、100万県民と言われた和歌山の人口は87万人台(先月1日現在)にまで減少。日高地方も少子化、若者の流出で人口減少に歯止めがかからず、学校の統合が相次ぐ。閉校に伴い、かつて西川氏がつくった校歌は消えゆく。しかし、それぞれの歌詞に込められた清純な思いはいつまでも胸に残る。
♪伸びよ栄えよ――県民歌に綴った西川氏の願いもまた、県民への永遠の激励ではないだろうか。