素朴な信仰と交流の場

 戦前から戦後へと、ささやかながら引き継がれているものの一つに、地域に伝わってきた素朴な信仰がある。子どもを守ってくれる「お地蔵さん」は全国各地、到るところでみられ、子どものためのお祭り「地蔵盆」でお菓子などが配られてきた。

 御坊市薗、中町3丁目付近の町内会、同志会(森本茂樹会長)の「同志会会場」に「茶免延命地蔵尊」がまつられている。現在地に移転したのは10年前、2015年6月。下川河川改修に伴う移転で、それ以前には長らくその北側、旧茶免橋のたもとにあった。その頃の地蔵堂は1932年(昭和7)ごろに改築、翌々年には周囲の玉垣が作られた。地蔵堂は樹齢数百年に及ぶ大きなイチョウの下にたたずんでいた。4月23・24日の地蔵盆には餅まきが賑やかに行われていたという。

移転前、2012年まで見事なイチョウが目印だった茶免延命地蔵尊(2010年ごろ、石本邦彦さん撮影)

 茶免地蔵保存会の石本邦彦会長(82)は、「秋には鮮やかな黄色の大きなイチョウが、茶免のお地蔵様の目印になっていました。2012年に切られましたが」と懐かしみ、「地蔵盆は地域によって日にちが違いますが、この辺は毎年4月23・24日。昔は120人ほどの人が集まって、餅やお菓子をまくのを賑やかに拾っていましたね」と回想。妻のとき江さん(77)も「私がここに嫁いできた時には、まだお餅まきをしていました。たくさんのお餅をついて丸める作業は大変でしたが、楽しかったですね。子どもたちにお菓子を配るのも楽しい作業でした」と振り返る。

 昔は春と夏の年2回行われ、夏には花火も打ち上げられていたという。子どもを守るお地蔵様のお祭り、子どもたちの喜ぶ顔を見るのは地域の大人たちの楽しみでもあった。保存会の10軒で当番を回り持ちしながら、地蔵堂に花を供えたり掃除などの世話を今も欠かさず続けている。

 地域に親しまれてきたこの延命地蔵尊についての最も古い記録は、「安政大地震津浪記録」。稲むらの火の逸話等で知られる、1854年の安政の大地震による津波の記録である。津波で地蔵堂の前にあった六、七十貫もある道標の石や手水鉢などが流れ出したが、地蔵堂には少しも故障がなかったことが「不思議成事」として掲載されている。

 また、石本石材店に遺る古記録によると、1870年(明治9)に大風雨があって地蔵堂が大破し、信者たちが和讃を唱えながら各地を寄進に回って修理したという。塩屋や上野等、当時としては相当遠くまで寄進に回ったことが記録されている。

 この人々に愛されたお地蔵様の境内には、御坊の芸能史に関わる碑が今も残る。

庶民の芸能史を語る碑

 現在の地蔵堂に向かって右側、2つの石碑が並んでいる。刻まれている文字は、奥の方の新しい碑が「紀國太夫事 豊竹君太夫(とよたけ・きみだゆう)」、手前の大きな古い自然石の碑は「豊澤廣七之碑」。

御坊の芸能の歴史を今も伝える碑

 豊竹君太夫は本名小竹利兵衛。江戸後期から明治にかけて活躍した浄瑠璃の名手だった。1803年に日高別院裏門前の造り酒屋に生まれ、のちに旅館業に転じたという。浄瑠璃の芸名が豊竹君太夫、紀國太夫は藩候から賜った名。旅館の旦那芸の域を超えており、上方は大坂の文楽座の太夫を務めたほどの技量であった。当時のファンは「君太夫の浄瑠璃を聞くと、ほかの人の浄瑠璃は聞けぬ」とまで絶賛。1873年(明治6)に71歳で他界。その6年後、彼を慕う門弟によって碑が建立された。

 豊澤廣七(とよざわ・ひろしち)は三味線の名手。本名は堀川で、名島屋という呉服屋の旦那だった。碑は明治30年代、やはり門弟によって建てられた。

 浄瑠璃は三味線の伴奏に合わせて語りで聴かせる芸能で、演目としては「妻は夫をいたわりつつ、夫は妻に慕いつつ」の一節で知られる「壷坂霊験記(つぼさかれいげんき)」などが有名。昭和初期には、御坊でも浄瑠璃文化が盛んだったという歴史がある。のちに映画館となった、大正12年完成の日吉座で昭和初期に活躍していた義太夫節の語り手、西下権蔵氏の孫に当たる男性は「日吉座は後に火事で焼けて縮小されたのですが、当初は1000人規模の劇場だったそうです。裃を着けて日吉座で語る祖父の写真が残っています。晩年も風呂などでよく義太夫節をうたっていたと、母から聞いたことがあります」と往時を偲ぶ。御坊浄瑠璃協会という団体が戦後も続き、昭和50年代ごろまでは存在していたという。

 テレビや映画もなかった時代、誰もが今の流行歌のように浄瑠璃の数々の物語を普通に知っていた。そんな文化が御坊にあったことを、明治期の名手を顕彰する2つの碑は物語っている。

 茶免の延命地蔵は、地域の人々の素朴な信仰を今に伝えるとともに、御坊の庶民芸能の歴史を伝える地でもある。