~天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず、といえり。~
これは福澤諭吉の名著『学問のすゝめ』の冒頭の言葉である。あまりにも有名な文章であるが、これは本当に人間の平等を謳った言葉であるろうか?、というのが著者の池田氏の問いかけである。本著は福澤諭吉の実像をその著書から読み解くものである。
我々が知る福澤像というのは、『講談社の絵本』シリーズの伝記に拠るところが大きいと著者は述べている。(以下引用)
―諭吉は、中津藩(大分県)の貧乏侍の家に生まれ、若い時から蘭学を学びました。後に英学に転じて、いくども欧米に渡り、西洋文明の実際を見てきた人です。(中略)
そこで学んだ独立自尊の旗を高らかに掲げ、日本の封建制度を打ち破り、本当の民主主義を起こすために、一生を戦い抜きました。(中略)本当に明治の日本を立派な文明国に作り上げるために、教育を通じて懸命に努力した大恩人です。―
福澤は確かに『学問のすゝめ』で学問(勉強)の大切さを謳ったが、この著書を詳しく読むと福澤の別の面が見えてくる。
福澤は学問を身につけた者が知能労働に就き、学問を身につけない者が肉体労働者となる、ここに貴賤の身分が生まれると述べている。その差別をいかに廃絶するかという課題は欠落している。また農工商の三民は身中に肉体の生命があるだけで、政治の生命はない。士族はそうでないとも云い、また『分権論』の中で、百姓町民は国の胃袋であり、士族は国の脳である。動物に例えれば農工商は豚のようなものだとも言っている。
福澤諭吉は慶應義塾の創設者で創立は一八五八年(安政五年)、中津藩中屋敷で開いた蘭学塾が始まりである。その後一八六三年(文久三年)に英学塾となり、一八六七年(慶応三年)芝新銭座に移転したときに慶応義塾となった。これは英国のパブリックスクールを範としたものである。そこで有名なのが、上野で幕府軍と官軍の戦いの際、福澤は「世事に係るべからず」として授業を続けたことであるが、このときの福澤の授業がウェーランドの『経済学原理』(原書)という経済書であったということも本著で示されている。慶應義塾の質の高さを窺わせる話ではある。慶應義塾はこの時代にあっても大学としての機能を果たしていたと云える。
本書は、福澤諭吉という人物とその思想を新たな視線から捉えた好著だといえるのではないだろうか。(秀)