同じ遺児に背中を押され

 日米開戦から約1カ月後の1942年(昭和17)1月4日、日本海軍は太平洋南部のニューギニア島東に浮かぶニューブリテン島ラバウルへの航空攻撃を開始し、19日後の23日にはラバウル上陸に成功、東西2カ所の飛行場地区を占領した。2月20日からは米海軍との海戦(ニューギニア沖海戦)が勃発し、3月10日にはニューギニア島東部の連合軍の重要拠点ポートモレスビー攻略を目指してラエ、サラモアへの空襲が始まった。

 その後、日本軍はニューギニア島東に突き出た半島北にあるブナに上陸した。12月に入るとそこから西へ約500㌔離れたマダン、さらに西のウエワクへと進出したが、翌年1月には米豪の反撃によりブナ守備隊が玉砕。補給線が伸びきった日本軍は南方戦線への武器・弾薬が届かなくなり、食糧を現地調達できない上陸部隊は敵に包囲されたジャングルの中で方向感覚を失い、マラリアや赤痢、デング熱などの感染症、栄養失調で次々と倒れ、島にいた約20万人のうち生還できたのはわずか2万人だったという。

 いまから10年前の2014年(平成26)7月、当時の安倍晋三総理がパプアニューギニア(東部ニューギニア)を公式訪問した。日本の首相としては、1985年(昭和60)の中曽根康弘総理以来、29年ぶりで、1日目は首都ポートモレスビーで首脳会談を行い、2日目はウエワクに移動し、昭恵夫人とともに日本人戦没者の碑に花を手向け、手を合わせて戦死者の冥福を祈った。直後、安倍総理は報道陣のインタビューに応じ、「家族の幸せを願い、祖国を思い、遠いこの地に倒れた多くの方々の犠牲のうえに今日の平和と繁栄がある。そのことをあらためて思い、敬意と感謝を込めて手を合わせました。二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。(日本は)アジアの友人、世界の友人とともに、世界の平和の実現を考える国でありたいと誓いました」と述べた。

 日本遺族会は1991年(平成3)度から政府の委託、補助を受け、戦没者遺児による慰霊友好親善事業として、戦没者の遺児による戦地を訪問しての慰霊友好親善事業を実施している。訪問先はグアム島やサイパン島のマリアナ諸島、インド、フィリピン、ソロモン諸島、中国など15地域があり、毎年、各都道府県の遺族会連合会等を通じて参加者を募り、希望者は10万円(東京など集合場所までの往復交通・宿泊費等は自己負担)で参加できる。

 昭和の戦争で、御坊市(旧6町村)の戦没者は約1000人、うち1割以上の148人がニューギニアで死亡した。藤田町藤井の元県経営者協会専務理事・事務局長塩路茂一さん(84)は1943年12月、陸軍船舶部隊に所属していた父久五郎(きゅうごろう)さんがウエワクで亡くなった。享年37。まだ3歳10カ月だった茂一さんに父の記憶はまったくない。72歳で仕事をリタイアして以降、父が亡くなった地を訪ねてみたいという気持ちが少しずつ強くなった。昨年、遺族会の会合で過去の参加者に背中を押され、「まだ元気なうちに」と参加を申し込み、今年2月、日本から5000㌔離れたニューギニアに眠る父に会いに行った。

死後81年目の再会に感無量

ウエワクの慰霊碑の前で追悼文を読む茂一さん

 今年2月2日、東京の皇居近くにある日本遺族会事務局(九段会館テラス)に、茂一さんら東部ニューギニア慰霊友好親善訪問事業の参加者17人が集まった。秋田、神奈川、愛知、奈良、和歌山、広島、鳥取など9県から、ほとんどが父を亡くした遺児。事業の説明を受け、靖国神社に参拝して旅の安全を祈願し、夜に夕食会を兼ねて結団式を行った。

 翌日の午後、訪問団は羽田を出発し、フィリピンを経由して4日の朝にパプアニューギニアの首都ポートモレスビーへ到着した。その日から7日まではマダン地区、ウエワク地区の戦地を移動しながら、機内からの遥拝、慰霊碑への参拝、慰霊碑の遺児・管理に協力してくれている現地の団体代表らとの懇談、現地の小学校への物資贈呈等が行われた。

 茂一さんは、陸軍歩兵連隊の父や海軍敷設船乗組員の父を失った人ら3人とともに、ウエワクにある日本軍の司令部が置かれていた海を見下ろす高台「洋展台」での追悼式に参列した。石碑の前で、一人ひとりが父親に伝えたかった思いを切々と語りかけた。

 久五郎さんが出征し、戦死してからの家族の暮らしについて、茂一さんは「農家だったので食べるものには困らなかったが、月々の安定した収入がないうえに大黒柱がいないのは本当に厳しかった」と振り返る。しかし、その苦しさの中で茂一さんは常に「負けるものか」「なにくそ」の強い精神力を持ち続け、高校時代は朝刊配達のアルバイトで家計を支え、卒業後、和歌山市の会社に就職するも仕事のあとは和歌山大学の夜間コースに通い、卒業した。その後、経団連(日本経済団体連合会)下部組織の県経営者協会に転職し、1990年(平成2)以降は理事、常務、専務の兼任で事務局長を務め、72歳で退職。2010年春の叙勲では、労働行政の功績により、旭日双光章を受章した。

 父が眠るニューギニアのかつての戦場で、茂一さんは「この世に生を受けて、父に対して一度も『お父さん』と呼んだことがなく、それだけが一生の悲しみであり、無念さが残っていましたが、その悲しみもきょう、父の戦地で夢を叶えることができました」と心境を述べ、皇居で拝謁の栄に浴した叙勲受章の喜びも報告した。

 父の死後81年を経て参加したツアーを振り返って、「とても天気のいい穏やかな日でした。同じウエワクで父を亡くした他の3人もみんな私と同じ年寄りでしたが、大きな声で 『お父さん、やっと来れたよ』 『お父さん、ありがとう』と語りかけていました。私も正直、ちょっと恥ずかしい気持ちもあったんですが、思いきって碑に向かって『お父さ~ん』 と叫びました。父もここから見たであろうニューギニアの美しい海を眺めながら、あぁ、お父さんはこんなところで死んだのかとすっきりした気分になり、感無量でした」。

 父が配属されていた水上勤務第五九中隊は1943年(昭和18)2月15日にウエワクへ到着し、小舟艇による輸送作戦に参加しており、久五郎さんはその作戦下の戦闘で亡くなったのではないかということが分かった。ツアーに参加して得られたのはそれだけの情報だったが、父が亡くなった地を訪れて、それまでずっとあったもやもやが一気に晴れ、気持ちが楽になった。

 追悼式のあと、茂一さんは洋展台と海岸の砂を集めた。袋に入れて持ち帰ったその砂は、遺骨のかわりとして、塩路家と茂一さんの姉則子(のりこ)さんが嫁いだ家のお墓のそばに置かれている。      (おわり)

 この連載は玉井圭が担当しました。