父と母、先生のやさしさ
真夜中、ふすま一枚隔てた隣の部屋で、大声で言い争う父富太郎さんと母ソノさんの声に気づいた正二さん。何があったのか、ドキドキしながら聞いていると、どうやら自分を誰かの里子に出そうという話らしい。当時、子どもを他人の家へ奉公に出したり、養子にやるというのは珍しい話でもなく、それが家計の負担を減らすためのいわゆる“ 口減らし ”であることは、12歳の正二さんも理解できた。
引き取り手は福井県の建設会社の社長で、子どもがいないため、小さい子ではなく、小学5年生か6年生ぐらいの男の子が欲しいらしい。「毎日、米のごはんを三食しっかり食べさせます。必ず大学まで出し、将来は自分の跡取りになってもらいたい」。いったいどこで父と出会ったのか、父はいつからそんなことを考えていたのか。その社長という人は家の前まで来ているという。話を初めて聞かされた母は「毎日、正二がごはんを食べたかどうか、心配しながら生きていくのは耐えられない」と、泣きながら反対していた。正二さんは結論が出る前に再び眠りに落ちてしまったが、翌朝、何事もなかったようにいつもの日常が始まり、その後もその話が出ることはなかった。
安定した収入がなく、売るものもなく、明日の米にも事欠く生活。なんとかこの苦しさから抜け出す方法はないかと考えたとき、子どもを養子に出す口減らしは聞こえこそよくないものの、冷静に考えればそれぞれの当事者にとって決して悪くはない話に思えた。父の考えも、母の気持ちも家族の幸せを願ってのこと。正二さんは「私を守ってくれたお母さんの気持ちがうれしかった。でも、福井のおじさんの家へ行ったら毎日ごはんを腹いっぱい食べられると思い、養子になってもいいなという気持ちもありましたね」と笑って振り返る。
空襲の際、低空飛行の艦載機が飛び去ったあと、空から薬きょうが落ちてきた。それを近所の友達と一緒に拾い、手がやけどするほどの熱さに驚いてはしゃいでいると、通りがかった兵隊に見つかって殴られた。学校では朝礼中に誰かが空腹で倒れると、連帯責任でクラスの全員が殴られ、教室では修身の授業で教育勅語の暗唱を言い間違えると、先生も一緒に殴られた。また、当時はみんなお下がりの落書きだらけの教科書を使っていたが、ローマ字が書いてあるのを兵隊に見つけられ、「貴様はアメリカのスパイか」といって殴られた子もいた。
どこにも安らぎのない小学生時代、5・6年生は週番でグラウンドの畑のサツマイモの見張りをした。6年生の正二さんは担任の村上先生から「腹が減っても絶対に盗むな」といわれ、「はい」とうなずきながら、見張りのたびにこっそり持って帰った。それは自分だけではなかったが、先生は何もいわず、収穫時にはイモがほとんど残っていなかった。村上先生は「今年のイモはなり(出来)が悪かった。残念ながら、みんなで分けることはできないけど、イモはおいしかったか」と聞いた。その言葉を聞いて正二さんは、先生が盗みを黙って見逃してくれていたことを知った。自分たちと同じようにやせぎすで、イモの番のときには「盗むという行為は相手も自分もつらい。だから絶対に盗むな」と話していた。先生の温かいまなざしと「おいしかったか」という言葉に、胸が熱くなって涙がこぼれた。
お母さんに恩返ししたかった
1945年(昭和20)8月15日、日本は戦争に敗れ、正二さんは現在の中学1年生にあたる高等小学校の1年生だった。学校教育がそれまでの愛国・道徳重視から個性と平等の尊重へと大きく転換するなか、正二さんは新制中学を卒業すると、家計を支えるために働き始めた。
しかし、大阪の市街地は焼け野原、日本全体の産業が止まった状態で、15歳や16歳の子どもを雇ってくれるところはどこにもなかった。人形の問屋、専門店が多い松屋町(まっちゃまち)で仕事を探していたところ、1軒のおもちゃ屋が売れ残ったおもちゃを祭りや縁日の露店で売る仕事を回してくれた。
露店が並ぶ一角を借りて売らせてもらい、売った分の一部が報酬となった。店のオーナーが事前に地元の元締めに話を通してくれたため、現場でトラブルになることもなかった。朝採れ野菜を農家から買い付け、それを八百屋に卸して回る仕事も得た。どれも面白く、やりがいもあったが、母親のソノさんはいい顔をせず、「そんな日銭稼ぎをしてたらあかん。ちゃんとした会社に就職しなさい」とたしなめられた。
終戦から5年後の50年(昭和25)6月には朝鮮戦争が始まり、米国から日本の企業に対する物資・サービスの発注が急増した。土のうの麻袋や軍用のトラック、砲弾をはじめ、韓国の復興のための鋼材、セメントなどの調達も増加。このいわゆる朝鮮特需により日本は不況から抜け出した。当時、21歳の正二さんは交際中だった照子さんと結婚したかったが、学歴も定職もない男を照子さんの親が許すはずもなく、2人の共通の知人の紹介で尼崎市の小さな鉄工所に就職した。1年間は本採用ではなかったが、コツコツと下働きする姿が「真面目なやつ」と評価され、2年目に晴れて正社員となったのを機に照子さんと入籍した。
その4年後、終戦から13年後の1958年(昭和33)、母ソノさんが亡くなった。まだ40代後半、栄養失調だった。「いつも子どもの体を心配し、命がけで私を守り、大きくしてくれた母に恩返しをしたかった」。毎日、汗と油にまみれて働いたが、その願いはかなわなかった。
母の死後、一緒に暮らしていた父と4人の姉はそれぞれ離れて暮らすようになった。まだ16歳の末弟孝四郎さんは父が面倒をみていたが、体が不自由だった父はお金を払って孝四郎さんを人に預け、そのお金が続かなくなると孝四郎さんは父のもとへ戻り、また違う人に預けられるという生活が続いた。
「孝四郎は母親が死んだとき、まだ小さかったので、お母さんの顔を知らないんです。私もなんとかしてやりたかったんですが、父と弟の面倒をみられるほどの稼ぎもなく、あっちこっちへ預けられていた孝四郎が本当にふびんでした」。
1963年(昭和38)、父富太郎さんが75歳で亡くなった。唯一の身寄りだった孝四郎さんは今年4月、80歳で亡くなり、10人の家族は正二さん1人になってしまった。
常に腹をすかせ、食べることしか頭になかった戦争時代。学校では同級生からいじめられ、先生や軍人には殴られる日々も、「死にたい」と思ったことはなかった。空襲や貧しさからの病による死がいつも身近にあったが、平和で豊かないまの日本人より、人の命はずっと重かった。
11年前、妻照子さんが亡くなり、翌年、大阪で暮らす3人の子どもたちに「田舎で静かに暮らしたい」といって、1人で印南町へ引っ越してきた。いまはなじみのカラオケ喫茶に出かけ、仲間とともに氷川きよしなど好きな歌を思いっきりうたう時間が何より楽しい。子どもたちには「尼崎よりやかましいわ」と笑われているという。