イモ売りと闇市の冒険
いまから約10年前、尼崎市から印南町印南原へ引っ越してきた岸山正二さんは、1932年(昭和7)12月27日、南河内郡古市町(現羽曳野市古市)に生まれた。父富太郎さん、母ソノさんの8人の子どもの6番目で、上から4人が姉、5番目の兄の元一(もとかず)さんとは7歳違いの次男。未熟児で生まれたため、医師からは「長く生きられないだろう」といわれたが、家族の愛情に包まれて元気に育った。
41年(昭和16)12月、小学校3年生の冬に米国との戦争が始まった。緒戦の快進撃も約半年後には形勢が逆転、43年(昭和18)4月以降は4人の姉が挺身隊として軍需工場に動員されたが、しだいに給料の支払いが滞り、週1回の配給も遅配や欠配が多くなってきた。兄の元一さんは消防局の消防士として、空襲のたびに消火作業に奔走。大阪市に拠点があった陸軍歩兵第八連隊は「またも負けたか八連隊…」とその弱さを嘲笑する歌が有名だったが、実際によく標的となり、ある日、連隊近くの現場で元一さんが放水作業をしていると、途中からホースを持っていられないほど水が熱くなり、振り返ると中継のポンプ車が燃えていたという。
当時5年生の正二さんも、家族の生活のために何とかお金を稼がなくてはならない。田舎の古市には田んぼが多く、列車で大阪市内まで行けば米や野菜を買う人が大勢いた。農家が売ると憲兵に捕まったが、子どもがイモなどを売って見つかっても、たいていは怒られるだけで見逃してもらえた。体が小さくかわいかった正二さんは、売り子にちょうどよかったのか、農家のおっちゃんの指名を受け、友達と一緒にジャガイモ売りのアルバイトをした。
「農家は田んぼでジャガイモも作ってて、収穫後、田植えの前に牛で起こした田んぼに水を引くと、小さなジャガイモがいっぱい浮くんです。それを集めて、10㌔ほど服に隠して売りに行きました」。近鉄古市駅から約40分、阿部野橋の駅に着くと、いつも野菜やイモを買い求める人でごった返していた。
「お~い、坊、こっちへ来い。おっちゃんが高ぅ買うたるぞ」「何いうてんの、おばちゃんの方がお金いっぱい持ってるでぇ」。列車から下りて改札を出るまでもなく、柵の向こうから腕が何本も伸びてきた。もみくちゃにされながら売上の30円を手に入れると、もう一度、同じホームの列車に乗って天王寺まで行った。目指すはさらに多くの人でにぎわう闇市。農家のおっちゃんにいわれた通り、そこで飴玉を買って帰るのが正二さんの仕事だった。
「農家のおっちゃんは手に入らへん砂糖の代わりに、イモを売ったお金で飴を買ってこいっていうんです。お母さんには、闇市へは行ったらあかんときつくいわれてたんですが、私にはおっちゃんの指示以上に行きたい理由がありました。というのは、お菓子の店で飴を買うと、そこのおっちゃんがいつも買った分とは別に、おまけで飴玉を一個、私の口に入れてくれたんです。それがもうとろけるように甘くてね」。学校ではいつも先生や軍人に怒鳴られ、友達からは「貧乏ったれ」と笑われていたが、イモ売りと親に内緒の闇市の冒険は、ちょっと大人になったような気がした。
退屈しのぎの大和魂
米や衣類、生活用品など、天王寺の闇市は現実とは別世界のように物であふれ返り、お金さえあれば何でも欲しいだけ手に入った。正二さんはいつもの店で飴玉を買い、おまけにもらった飴をなめながら人の波をかき分けていると、食欲をそそるいい香りが鼻先をかすめた。犬のように鼻をクンクンさせながらにおいの元をたどってみれば、そこは屋台の天ぷら屋さん。身をかがめてそっと近づき、立ち上がると、ちょうど目の前に天ぷらの鍋があった。「あぁ、ええにおいする…」と鼻で深く息を吸い込んだ瞬間、「パチン!」と勢いよくはねた油が頭にかかった。
「あっち~!」。正二さんはその場にひっくり返ったが、店のおっちゃんと客は振り向いてもくれない。世知辛い戦時下、目の前で誰がどうなろうと、他人にかまっている余裕はなかった。正二さんは額の上にけっこうなやけどだったが、闇市に出入りしていることは母親に内緒だったため、家に帰っても本当のことはいえなかった。あれから80年以上たったいまでも、天気がすっきりしない日はピリピリ痛むという。
学校は完全に軍の施設となっていた。グラウンドはサツマイモの畑、教室は糧秣(りょうまつ)と呼ばれる兵員用の食料の貯蔵庫に変わり、それを盗まれないように兵隊が交代で見張っていた。たまに激励と称して位の高い兵隊が朝礼に来て、校長先生の代わりにあいさつをした。
朝礼では1500人ほどの全校児童が行軍(行進)させられ、正二さんはラッパを吹くメンバーだった。「6人ずつの2班が交互にラッパを吹くんですが、みんな腹が減りすぎて大きな音が出ないんです。そうすると、兵隊に『大和魂が入ってない!』と殴られ、先生やみんなの前で並ばされ、助走をつけて飛び蹴りされたこともありました」。とにかく二言目には大和魂。子どもたちの学校に教育も人権も何もなかった。「ようするに、小学校で米の番をしている兵隊なんか、何もすることがなくて暇なんですよ。子どもらは毎日、兵隊の退屈しのぎに、殴られに(学校へ)行っているようなもんでした」と振り返る。
1945年(昭和20)の戦争末期になると、上空に敵機が現れても日本の戦闘機は出撃しなくなった。本土決戦に備え、残り少ない航空機を1機でも温存しようと、関西の防空拠点だった八尾の陸軍大正飛行場(現八尾空港)周辺では、上空から戦闘機が見えないようコンクリートで機体を覆い隠す掩体壕(えんたいごう)と呼ばれる格納庫が急ピッチで建設された。定職がなかった正二さんの父も作業に駆り出されたが、還暦手前の老体に重労働は耐えられず、腰を痛めて動けなくなった。
母親は自分の着物を売ってやりくりしたが、そのわずかな収入も10人の大所帯には焼け石に水。正二さんは犬やヘビ、他人の頭の脂がしみついた枕の小豆、うじがわいたみそも手で取り除きながら食べた。そんなある日の夜、正二さんは両親が激しく言い争う声で目を覚ました。