戦地からの母への便り
大東亜戦争末期の1945年(昭和20)3月26日、米軍は日本本土防衛の最後の砦となっていた沖縄を攻略するため、本島南部の那覇市から西へ約40㌔離れた慶良間(けらま)諸島に上陸した。6日後の4月1日には本島中部、読谷村(よみたんそん)の渡具知(とぐち)海岸付近に艦船約1500隻、約18万3000人の兵力を持って押し寄せ、北と南に分かれて進軍。その日のうちに読谷と嘉手納の2カ所の飛行場を制圧し、2日午後には東海岸に達して本島を南北に分断した。
その後、米軍は主力部隊を日本軍の拠点があった南の首里方面へ振り向け、7日ごろから総攻撃を開始。日本軍は司令部の首里陣地を守ろうと反撃し、約40日間にわたる一進一退の攻防戦が展開された。しかし、5月下旬には日本側が主戦力の8割を失い、首里を放棄して本島南端の摩文仁(まぶに)へ撤退。6月中旬には組織的な抵抗もできなくなり、同月23日、牛島満軍司令官と長勇参謀長が摩文仁岳中腹の司令部壕内で自決。2カ月近くにわたる地上戦は終結したとされている。しかし、その後も本島や本島以外の島で敗残兵が局地的に抵抗を続け、米軍と南西諸島守備軍との間で降伏調印が行われた9月7日が正式な沖縄戦終結の日だったともいわれている。
この沖縄戦終焉の地、糸満市摩文仁(まぶに)の丘の平和祈念公園には、沖縄戦で亡くなったすべての兵士、民間人合わせて24万人以上の氏名が刻まれた「平和の楚(いしじ)」と呼ばれる石碑が並んでいる。その中に、那覇市の東の小波津(こはつ)で戦死した旧日高郡川上村(現日高川町)皆瀬出身、児玉好喜(よしき)さんの名前が刻まれている。
好喜さんの父朝隆(ちょうりゅう)さん、母たつのさんには5人の子どもが生まれ、長男の義隆さんは早くに亡くなったため、実際には2人目の博一さんが長男、3人目の好喜さんが次男、4人目の喜代三(きよぞう)さんが三男として育ち、その下の末っ子に長女正代さんがいた。長男博一さんは、県内初の水力発電所、日高川の越方発電所の建設に携わった土木エンジニアで、全国各地の現場を回っていた伯父三十郎さんを頼って群馬県に在住。戦時中、皆瀬には朝隆さん夫婦と好喜さん、喜代三さん、正代さんの家族5人ともう1人、群馬から夫の家を支えるために来ていた博一さんの妻高子さんも一緒に生活していた。
好喜さんは陸軍砲兵隊空戦市砲兵一連隊に所属し、沖縄戦では琉球第4401部隊青柳隊(陸軍兵長)として出征。45年4月7日ごろから日本軍司令部の首里城に近い中頭郡西原村(なかがみぐんにしはらむら=現西原町)の陣地で米軍戦車群の南下を阻止すべく奮闘したが、同月10日、同村小波津で戦死した。23歳だった。
戦後、遺骨収集事業の事務局の担当者から家族に届いた報告によると、米軍上陸部隊は4月7日に西原村小波津陣地に侵入したが、日本側の砲撃が命中した弾薬集積場は15日間も黒煙を上げて爆発を続けていた。その後、米軍観測機の誘導射撃により、海上の米艦砲の直撃弾を受け、好喜さんらの第一小隊第一分隊が全員戦死したという。
皆瀬に住む好喜さんの弟、故喜代三さんの次男正さん(68)は昨年夏、家の中の古いものを整理しながら、8年前に87歳で亡くなった叔母正代さんの遺品の中に、好喜さんが戦地から母たつのさんに宛てたはがきを見つけた。
平和の礎で得た心の癒やし
好喜さんからのはがきは1945年1月11日の消印で、差出人の住所は沖縄本島南部の島尻郡東風平村(こちんだそん=現八重瀬町東風平)の東風平郵便局気付。細かい文字がびっしりと並んだ便りには、故郷と家族への想いのほか、同じ皆瀬から出征していた幼なじみの(井原)広一さんが中国で戦死したことへの驚き、広一さんの母親への気遣いがつづられている。
「日頃のおばさんの気性だから、落胆はなさらないかもしれませんが、それでも国のためとはいえ親ですから、行動には見せずとも心の中はいかがでしょう。その心を思って、どうか友人の母としておばさんを慰めてあげてください」。明日は我が身とばかり、我が子を失った母親へのやさしさといたわりがにじむ。
また、中隊長らの推薦を受けて、12月から軍の幹部を目指して勉学に励んでいるという報告もあり、「決して人には負けません。ますます勉強して越方の親方(伯父の三十郎さんか)のようになります。孝行するのが遅くなるかもしれませんが、勘弁願います」という喜びに満ちた決意も。
最後に家族に対し、「喜代三は元気でやっておりますか」「お父さんは体がずいぶん弱くなったでしょうか。十分に気をつけて働きくださるよう申してください」「お母さんも無理せぬよう、正代にも十分手伝うようにいってください」と一人ひとりに思いを寄せている。
はがきは好喜さんの妹正代さんが母親から預かっていたが、母が死んだあとは実家の兄喜代三さんが保管していたらしい。正さんが昨年、古いものであふれる家を整理していたところ、仏壇の下から出てきた。はがきのほか、生前の好喜さんの写真などが丈夫な油紙の袋に入れられ、両親の名前や好喜さんが亡くなった日付などとともに、喜代三さんが児玉家の宝として「永久に保存すべし」と記していた。
実家を離れ、神戸の会社に勤めていた正代さんは、自身が亡くなる12年前の2004年(平成16)、74歳のときに職場の旅行で初めて沖縄を訪れた。その際、親しい同僚の1人に「どうしても行きたいところがあるから付き合って」とお願いし、会社の人たちと別行動で糸満市の平和祈念公園へ行った。正さんによると、運転免許もなかった正代さんは旅行などほとんどしたことがなく、写真を撮る趣味もなかったが、沖縄へ行く機会があれば平和の礎を訪ねたいという思いはずっとあったはず。正さんは「心残りだった兄との再会をようやく果たせたのでしょう。はがきと一緒に出てきた平和の礎の前で撮った写真は、ホッとしたような表情に見えます」という。
正代さんの沖縄訪問の10年後、2014年2月には、マラソンが趣味の正さんと妻聡美さん(63)が沖縄本島で開催されたNAHAマラソンに参加し、2人で平和祈念公園を訪れた。広場に放射状に配置された石碑は100基以上、刻銘板は1200面以上もあり、「児玉好喜」の名前を見つけるまでに思いのほか時間がかかった。「まだ冬で日が短かったですし、だんだん空が薄暗くなってきましてね。なんとか日が沈む前に見つけることができました。行って本当によかった」と振り返る。
祖国と家族を守るため、幹部になるという希望を持って訓練、勉学に奮闘しながら、23歳の若さで亡くなった好喜さん。国民の約9割が戦後生まれとなったが、弟の喜代三さん、妹の正代さんらの想いは永遠に、児玉家の家族の間で大切に語り継がれる。