和歌山室内管弦楽団代表の中西忠氏が24日、92歳で亡くなられた。若いころはへき地の子どもたちに音楽を届ける活動を続け、自身の音楽教室指導や地域の音楽祭に力を注がれ、弊紙も随筆寄稿や取材で長らくお世話になった。
私自身、管弦楽はまったくの門外漢で、初めて親しくお話させていただいたのはいまから11年前、昭和の戦争末期の由良湾で起きた海防艦と米軍機の戦闘についての取材だった。
終戦の年、先生は日中(旧制日高中学校=現日高高校)の2年生。海防艦の戦闘があった日、敵機が去った午後、大引の自宅から3歳下の弟実さんと歩いて糸谷の戦場へ向かった。
現場が近づくにつれ、海には無数の魚が腹を背にして浮かんでおり、血の気のない全身真っ白な海防艦の兵士の遺体も浮かんでいた。先生と実さんは遺体を回収していた兵隊に頼まれ、作業を手伝った。
その際、お礼に大きなクラッカーを2枚もらい、先生はその場ですぐに食べてしまったが、実さんは半分残した。先生が「なぜ食べないのか」と聞くと、実さんは「家に持って帰ってみんなに分けてあげる」といったという。
「海防艦の話になると、いつもあの日の実のやさしい笑顔を思い出すんですよ」と、ご自身もやさしい目で話されていた。血生臭い話もどこか温かく、何を聞いても〇年〇月〇日、戦闘機の種類や飛び去った方向など、抜群の記憶力と反応の速さに驚かされた。
戦争に関する取材ではどんな史料や文献より、自分の体験と記憶に信念を持って答えてくださり、記者の私はその緊張感によって鍛えられた。きょう28日は海防艦の悪夢から79年。これからも、天国の先生に褒めていただけるよう精進します。 (静)