太宰治が死んだのは昭和二十三年六月十三日である。今年も桜桃忌の季節がやって来た。

 本作品を読んでいると文学者が大勢登場してくる。例えばこうだ。

 中原中也は、

 ―雪が夜中の雨にまだらになっていた。中原はその道を相変わらず嘯くように、

 汚れちまった悲しみに

 今日も小雪の降りかかる

 と、低吟して歩き、やがて、車を拾って、河上徹太郎氏の家に出掛けていった。―

 また、佐藤春夫邸に出向いて、檀の小説の表紙を太宰と二人で頼んだ事も記されている。

 そして、太宰の自死の日。

 ―「新聞の模様を見ると、すぐ側の玉川上水に飛び込んでいるでしょう。その上女連れだ。若し遠ければ思い返す機会が無いとも限らない。それから太宰一人だったら思い返して、それがすぐに実行にも移せる。しかし、二人では今度は駄目ですね」

 と、私はまた言った。―

 檀一雄は、哀切の念を込めてこの小説を書いている。

 筆者が大学一年の時である。三鷹・禅林寺で行われた「桜桃忌」に出掛けて行った。

 始まると司会の方がどんな挨拶をしたのかはまったく思い出せないが(もう五十年も昔のことだ)、ただ檀一雄だけはよく覚えている。まだ娘の檀ふみが女優デビューする前である。和服であった。たしか薄黄紗織りの着物に濃茶色の野袴だったような気がする。ほう、これが文学者なんだと畏敬の眼で眺めていた。

 この桜桃忌には会費が要った。理由はお弁当とお酒が付いていたからである。お腹が空いていた私は知り合いも誰もいないので(当然だが)太宰所縁の人々が団欒し太宰を懐かしんでいる横で弁当を必死にパクパクと食べていた。薄目使いに檀一雄だけは見て。

 ただ、神々しかった。檀一雄はわたしと違って弁当には一切手をつけず、やたら大声を出してお酒だけを呷っていたように思う。酒を飲まずにはいられないような理由がそこにはあるように思えた。

 帰り際、寺の門を出ていく和服の袖の袂が風になびいて大きく見えた。わたしは、文学者・檀一雄に何も話しかけられなかったのを今でも悔いている。

 檀一雄は春の風の中でヒラヒラ舞って消えて行ったように、わたしには思えた。(秀)