
御坊市教育委員会は19日、藤田町吉田の八幡山城(吉田城)の跡地で行った初の発掘調査で建物の柱穴や皿、曲輪(くるわ)などを確認し、東西約70㍍、南北約50㍍の規模で、伝承通り南北朝時代の山城が八幡山の山頂に存在していたことが証明されたと発表した。22日午後1時半から、現地で発掘調査説明会が開かれる。
八幡山城は1346年(興国7)に、旧矢田荘吉田村領主の吉田蔵人源頼秀が築城。頼秀は政所として、土生城主の逸見氏や日高川筋の山崎城主川上氏と姻戚関係を結んでこの地を治めていた。また、三男吉田金毘羅丸源頼貞や逸見氏らとともに道成寺に釣り鐘を寄進し、屋根修復世話人を務めるなど大檀那(だいだんな)となっていた。そんな歴史を後世に伝えようと、頼秀の子孫である地元企業のヨシダエルシス会長吉田擴さん(81)らが進めている山頂の公園化計画に伴い、市教委が先月下旬から発掘調査を開始。幅1・5㍍の溝状の調査区を設けて城の内容や残存状況を調べた。
現場では掘立柱(ほったてばしら)建物の柱穴や土坑、炉などを発掘。南北朝時代の特徴を持つ土師器(はじき)皿や土釜、鉄くぎなどの遺物も出土した。城の構造は標高72㍍の八幡山の頂上部を占める東西に長い楕円形の主郭(しゅかく)の周囲に2段の帯曲輪(おびぐるわ)を巡らしていたと想定。尾根続きとなる西側のくぼみに空堀を置き、東西の曲輪の端に土塁、曲輪と曲輪の間の斜面に敵の侵入を防ぐ切岸(きりぎし)を配していたとされる。
教委は「当時の構造をそのまま遺す城跡であると評価でき、城の内部構造を垣間見る資料を得た」。子孫の吉田さんは「先祖代々、城の場所は伝わっていたが、実際に証明されてホッとしています。今後も公園化を進め、多くの人に来てもらえる場所にしていきたい」と話している。