第一次大戦カナダ遠征軍として最も多くの日系人を受け入れた第10大隊の日系人兵士。前列右が尾浦さん(日系カナダ人博物館HPより)

 1888年(明治21)、三尾の宮大工だった工野儀兵衛は34歳でカナダへ渡り、BC州の港町スティーブストンで食料品店を兼ねた旅館を経営しながら、三尾から移民を呼び寄せた。当時は公衆衛生がひどかったため病気になる人も多く、死者が出るたび地区の世話人が各家庭から葬儀費用を集めていたが、96年にはその費用を徴収・管理する団体が設立され、4年後にはその団体を母体とする加奈陀三尾村人会が発足した。

 その後、上下水道が整い、生活環境は大きく改善。日本からさらに多くの移民が押し寄せ、1912年(大正元)には村人会の会員が1500人、40年(昭和15)には2000人を超え、スティーブストンはトロントに次いでカナダで2番目に多くの日系人が住む街となった。

 貧しくとも互いに助け合い、勤勉さを失わなかった日系人コミュニティが大きくなるにつれ、白人たちの間でアジア人に対する不満が高まり、1900年代初頭には米国とカナダでアジア排斥同盟が結成された。カナダでは07年(明治40)8月、「東洋人をBCに入れるな」をスローガンとする排斥同盟がバンクーバーに立ち上がり、9月には約9000人がバンクーバーの中国人街と日本人を襲撃するバンクーバー暴動が起きた。

 その後も日系移民は入国者数の制限、就労可能職種の限定、市民権を得ても選挙権は認められないなどの差別が続いた。14年(大正3)に第1次大戦が始まると、日系人は国家に対する忠誠心を示すことで選挙権を認めてもらおうと、約200人が英国自治領カナダの兵士に志願した。うち和歌山県出身者は26人。彼ら義勇兵はほぼ全員、ドイツ軍と激戦となったフランス北東部のアラス戦線などへ送られた。

 その中に日高地方出身者は、三尾村出身の尾浦ジェームズ熊吉さん、浜出文吉さん、二井(につい)藤吉さん、由良村中(現由良町中)出身の原新吉さんの4人がおり、尾浦さんと原さんは戦死。浜出さんと二井さんは生き延びてカナダへ帰国するも、いまとなっては消息が分かる資料が何も残っていない。

 1939年(昭和14)からの第二次大戦ではカナダにとって日本は敵国となり、カナダ政府は日本語学校の閉鎖、日本語新聞の発刊停止、漁業者の操業禁止などの措置を決定。42年にはすべての日系人に対し、太平洋沿岸から100㍄(160㌔)以上の内陸部へ立ち退く強制移動が命じられた。元は家畜小屋だった収容所に閉じ込められ、土地や財産は没収、漁船はスティーブストンだけで1300隻以上が所有者の許可なく競売にかけられた。

 三尾から出た日系人は他のカナダ移民、他国へ渡った移民と比べても祖国への帰属意識、コミュニティの結束が強く、子どもが学齢期を迎えると日本の学校へ通わせるなど、両国間を頻繁に行き来するのが特徴だった。しかし、そうした往来、交流も世代が進むにつれ少なくなり、いまではほとんどみられなくなった。

 現在、三尾では中学・高校生が移民の歴史を未来へ伝えていこうと、「語り部ジュニア」として英会話や地域の伝統文化、歴史を学んでいる。その活動を支えるカナダミュージアム館長の三尾たかえさんは、「いまは三尾でも過去の移民の話を聞かせてくれる人がおらず、子どもたちは昔の地域の様子や人々の暮らしを知ることができません。それでは当然、『三尾は何もない不便なところ』という否定的な見方になってしまいますが、大人たちが惜しむことなく子どもたちと向き合い、まちの歴史を語ることで、かつては多くの人が人生を切り開くために海を渡り、チャレンジした進取の気性に富んだ土地だったという歴史を知り、まちに対する愛着、誇りが生まれるのではないでしょうか」という。