令和六年一月一日に起こった能登半島地震は北陸三県を中心に甚大な被害をもたらしている。特に石川県ではいまだに被害の全容さえ掴めない状況である。また道路の寸断による孤立集落は多数存在、救助も救援物資も届かぬ状況となっている。命の限界と言われる七十二時間を過ぎてもなお行方不明者が多数存在している状況である。

 そこで本日紹介するのは、吉村昭著「三陸海岸大津波」である。

 本文の一部を紹介する。

―私は、三陸海岸が好きで何度か歩いている。(中略)

 私を魅了するのは、三陸地方の海が人間の生活と密接な関係をもって存在しているように思えるからである。(中略)

岩手県の三陸沿岸を歩く度に、私は、海らしい海をみる。屹立(きつりつ)した断崖、その下に深々と海の色をたたえた淵。海岸線に軒をつらねる潮風にさらされたような漁師の家々。それらは、私の眼にまぎれもない海の光景として映じるのだ。(中略)

(そんな海が一変する。)

―すさまじい轟音が三陸海岸一帯を圧し、黒々とした波の壁は、さらにせり上がって屹立した峰と化した。そして、海岸線に近づくと峰の上部の波が割れ、白い泡立ちがたちまちにして下部へとひろがっていった。―

 三陸海岸を中心に述べられているが、地震や津波の恐ろしさを知るには最適の本だと思われる。

 同著より主だった三陸海岸だけの津波の歴史を次に示しておく。
(一)貞観十一年(西暦869)・死者千余名
(二)天正十三年(1585)・死者不明
(三)慶長十六年(1611)・伊達領内、死者千七百八十三名
(四)元和二年(1616)・死者不明
(五)延宝四年(1676)・人畜多数死亡・家屋の流失多数
(六)貞享四年(1687)・不明
(七)元禄九年(1696)・船三百隻流失、溺死者多数
(八)天保六年(1845)・人家流失数百、死者多数
(九)安政三年(1856)、明治二十七年(1894)、被害甚大、不明。

(十)明治二十九年(1896)・宮城県で死者三千四百五十二、青森県で死者三千四百三名、岩手県ではさらに二万二千五百六十五名にも及んだ。

 東日本大震災前にもこれだけの大惨事が起こっていたのである。

 同著は、明治二十九年の津波から昭和八年、そしてチリ地震津波のことを前兆から被害、そして余波に至るまで詳細に記述した記録文学の傑作である。本年の能登半島地震においても地震による大津波が起こった。私たちの防災意識への警鐘と津波の恐ろしさを知る上での良書だと思う。

 地震大国日本として、日本人ならぜひとも読んでおきたい一冊なのではないだろうか。(秀)