墜落寸前の機体から米兵脱出

 1945年(昭和20)5月5日、山深い日高郡川上村(現日高川町)上初湯川の妹尾(いもお)に住む農業中島岩男さん(当時35歳)は、妻ゆきさん(当時25歳)、長女美智子さん(当時6歳)とともに、自宅の真上で繰り広げられたB29と日本の戦闘機の銃撃戦を目撃した。その日から52日後の6月26日、またも低空で飛来したB29が寒川村串本の山へ墜落。岩男さんは、機体から脱出した米兵が近くの山にパラシュートで降り立ったと聞き、猟銃を手に家を飛び出した。

B29は妹尾の西山さん宅(手前)の上空を通って西(奥)向きに飛んでいった

 87年(昭和62)、御坊商工(現紀央館)高校社会研究部・地理歴史部が地域の人たちへの聞き取りを行い、発行した「語り継ごう日高の空襲」によると、午前10時すぎ、串本上空に1機のB29が飛んできた。当時、紀伊半島は日本の本土、とくに京阪神の都市部を空爆する米軍機の飛行ルートとなっていたため、奥日高の上空は毎日、B29の編隊が高高度で通過していたが、この日はいつもと違って1機だけ、しかも高度が異常に低かった。北から南へ飛んできた機体は日高川支流の猪谷川の上空で突然、主翼の右側から炎と煙が上がり、翼がちぎれ、機体はキリモミ状態で急降下。椿山ダムの南東約2・8㌔、串本地内の清冷山の稜線(通称・ハラホテ山)に墜落した。

 このころ、妹尾の集落には13軒、約50人が暮らしており、猪谷川沿いにさらに北の紅葉の名所「八斗薪」の手前には、国が植林、伐採等を管理する国有林(妹尾国有林)が広がっていた。山で切り倒された木は製材所で加工され、加工された材木は猪谷川に沿って河口の串本まで伸びる森林鉄道のトロッコで搬出。1950年(昭和25)の事業終了に伴い、全長約13㌔に及ぶ線路は撤去された。28年(昭和3)10月から翌年正月までの3カ月近く、博物学者南方熊楠が管理事務所と近くの民家に滞在し、粘菌の宝庫だった山から菌類を採集しながら、図譜作成に励んだ。

 熊楠が寄宿した民家は、国有林南の妹尾氏子神社近くの大工西山徳之助さん宅。徳之助さんの孫で、元運転手の西山寛躬(よしみ)さん(90)=和歌山市小倉=は13歳のとき、超低空で飛ぶ墜落寸前のB29を目撃した。寛躬さんによると、B29は北の空から飛んできて、猪谷川の上を西に向かってフラフラ飛んでいた。寛躬さんの家から400㍍ほど西の岩男さんの家の上あたりで火を噴いて主翼がちぎれ、さらに西の山の向こう側へ飛んで行ったという。

 農家の岩男さんは少し前、親類に借りた牛にからすきを引かせて田んぼの土を起こしていた際、蜂に顔を刺された牛が暴れ、足にけがをした。そのため、この日は田植え時期だったが田んぼへは行かず、家で休んでいた。凄まじい爆音が上空を通り過ぎたあと、近所の人から山に米兵が降りてきたという話を聞くや、立ち上がって妻のゆきさんに「(近くの親類の家から)鉄砲借りてこい!」と命じ、痛む足をゲートルで縛り、猟銃を手に死なばもろともの覚悟で現場へ向かった。

言葉の壁超え通じ合った

「2回のB29墜落の話は子どものころから父に何度も聞かされました」 と中島さん

 岩男さんは、近所の人たちと森林鉄道のトロッコに乗り込み、家の西の瀬戸(せと)と呼ばれる集落に近い山を分け入ると、1人の米兵が力なく座り込んでいた。見た目は自分より少し上ぐらいの中年。立派な口ひげをたくわえ、機長クラスの上等兵に見えた。よく見ると、軍服のおしりの部分が破れ、おしりにピンポン球ぐらいの穴が開いて出血していた。山へ着地の際に木の枝が刺さったのか。痛みで立ち上がれないらしい。岩男さんは止血効果のあるヨモギの葉っぱを集め、石でたたき、小さなボール状に丸めて、米兵の負傷部分に押し込んでやった。しばらくすると、誰かが近所の人に頼んだのだろう。温かいおかいさん(茶がゆ)が届き、米兵はそれを一口食べると、「サンキュー、サンキュー」と頭を下げた。

 村人の思いがけないやさしさに感激した米兵は、お礼のつもりか、左手に巻いていた腕時計を外し、岩男さんに手渡した。岩男さんはどうしたものか、一瞬、戸惑ったが、自分の胸ポケットを指さし、手刀で首を斬るジェスチャーをみせた。「この時計をもらってポケットに入れると、俺は処刑される」。両手のひらで押し戴くように気持ちを込めて返すと、米兵は黙ってうなずき、今度は軍服のポケットから1枚の写真を取り出した。写っていたのは、女性と小さな女の子。聞くまでもなく、母国にいる家族だと分かった。憲兵が現場へ駆けつけるまで、岩男さんはボディーランゲージで「あなたたちはどこを離陸したのか」「日本のどこを爆撃したのか」と質問した。米兵は「サイパン」を離陸し、「アマガサキ」を爆撃したと答えた。

 寒川村史や「語り継ごう日高の空襲」によると、この日、串本に墜落したのはサイパン島を拠点とする第73航空団499爆撃群所属の機体で、陸軍大阪造兵廠(現在の大阪市中央区、大阪城ホール付近)を攻撃目標として離陸した。岩男さんが聞いた尼崎は大阪とセットで爆撃目標都市に設定されており、この日に攻撃したのかどうかは分からないが、生き残った米兵たちは大阪上空を飛行中、地上の高射砲にやられたと話していたという。

 B29に搭乗していたのは11人で、機長ら2人は墜落の際に死亡。9人がパラシュートで脱出し、初湯川の谷で3人、猪谷川の谷で2人、ハラホテ山の墜落現場では1人の生存者(2人の遺体も)が発見された。残る3人はハラホテ山の奥の青冷山に降下し、印南町真妻側へ逃げたが、後日、地元の人に見つかった。初湯川や猪谷川など旧美山村で捕まった6人は、手を縛られて役場へ連れて行かれ、途中、村人から石を投げつけられたり、殴られたりもしたが、そこへ西川という軍服の在郷軍人が姿をみせると、一斉に立ち上がって敬礼をした。彼らの身柄は遅れて到着した警官や憲兵に引き渡され、車で御坊へと連行された。

 連合軍捕虜の実態調査活動を行っているPOW研究会の資料などによると、生存者9人は全員が捕虜となり、御坊憲兵分隊、和歌山憲兵分隊を経て、大阪の中部憲兵隊司令部に送られた。その後、8月15日までに3人が真田山陸軍墓地などで処刑されたとの記録があるが、岩男さんが出会ったひげの米兵の消息は分からない。

 戦後、岩男さんは何かの折に戦争の話が出るたび、この2回のB29墜落事件の思い出を家族や周囲に語った。米兵がお礼に差し出した腕時計については、「ほんまは欲しかったけど、周りの目もあったからな」と笑いのネタにしていたが、妻と子どもの写真を見せられたくだりでは、岩男さんの目はいつも悲しそうだった。次男の知久平さんは「敵とはいえ、同じ夫、父である点が、言葉の壁を超えて通じ合ったのでしょう。もちろん、ほかの誰よりも、米兵のその後が気がかりだったと思います」という。

 終戦から78年、串本へのB29墜落事件を自身の体験として語れる人はいなくなった。知久平さんは「父があの日、米兵に見せてもらった家族の写真の2人のうち、娘さんの方はいまでは80代後半から90歳ぐらいでしょうか。いまもご健在なら、なんとかして探し出し、お父さんと私の父が出会った日のことを伝えたいと思います」。岩男さんの体験談を英語に翻訳し、インターネットで公開することを考えている。