日高高女が軍需工場に

 日中戦争の長期化による労働力不足を補うため、文部省は1938年(昭和13)6月、集団的勤労作業運動実施ニ関スル件を通達し、中学校以上の生徒・学生は集団的勤労作業として農村や工場に動員された。日米開戦後の43年(昭和18)6月には学徒戦時動員体制確立要綱が閣議決定され、子どもたちが生産・輸送の各方面に組織的に動員されるようになった。さらに44年(昭和19)3月の決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱の閣議決定により、それまでの勤労動員の期間(1年間の3分の1)が撤廃された。

 県立日高高校の前身、日高中学校、日高高等女学校、日高工業学校の生徒たちにも動員先(軍需工場)が割り当てられ、現在の御坊市島の大洋化学の場所にあった石川島航空工業日高工場、御坊市名屋にあった三菱軽合金工業日高工場(通称・日本アルミ)、堺市の松下造船堺工場などに動員された。

 御坊市本町3丁目で婦人服・紳士服の店「若野屋」を営む津村幸子(ゆきこ)さんは、1930年(昭和5)2月、日高郡切目川村(現印南町)古井の郵便局長五味光次(みつじ)さんとみわこさんの第1子として誕生した。小学校卒業後は日高高等女学校へ進み、稲原駅から汽車に乗って通学した。

 日本と米国の戦争は小学校6年生の冬から始まり、翌年の1942年(昭和17)4月に入学した幸子さんら第32期生は全員がおかっぱ頭で、制服はあこがれの白線が入ったスカートではなく、ほとんどがオーバーオールのようなもんぺ、足元は靴、下駄、草履などバラバラだった。

 1年生のころはまだ空襲もなく、遠足で西山に登ったとき、初めてB29が飛んでいるのを見た。「あの日はすごく天気がよくて、1機の飛行機が北から南へ向かって飛んでいました。大きな爆音が聞こえ、青い空に伸びていく飛行機雲がきれいでね。そのときは怖さなどまったくなかったです」という。

 授業は国の指導で英語の授業はなくなり、やがて農家の人手不足と食料不足に伴い他の数学や国語の授業も行われず、サツマイモ作りや柴刈り、農家の田植えなどを手伝う勤労奉仕ばかりとなった。男子の日高中学校のような軍事教練こそなかったが、学生の本分の勉強(授業)はなく、すべてが戦争に勝つための活動。生徒たちは不平不満をいうこともなく教師の指導に従った。

 1944年(昭和19)5月、5年前にクラスの増加に対応して増築された新館の3教室が軍需工場に改造された。4年生はその学校内の工場で飛行機のアルミ部品の製造作業につき、幸子さんら3年生は3つのクラスごとに3カ所の工場へ。花組の幸子さんは島の石川島航空へ動員された。

 工場では「ここは飛行機の発動機を作るところだ」と教えられ、やすりで部品を磨く作業を担当した。幸子さんはそれが発動機のどの部品なのかは分からないまま、仕事中は黙って作業に集中したが、日を追うごとにその時間が少なくなっていった。原材料が不足し、人手はあっても部品の製造量がどんどん落ちていた。

 1945年(昭和20)3月、石川島航空に動員されていた4年生と幸子さんら3年生は、神奈川県の同社横浜工場へ転勤することになった。このとき、長女が幸子さんと同じ3年花組だった志賀村(現日高町)下志賀の主婦野尻きみえさんは、「子供らを一人一人と送り出し箸をとる度淋しかりけり」と、戦時下の暮らしの悲哀を詠んだ歌を日記に書き残している。

恐怖に震えた横浜大空襲

 1944年(昭和19)3月の決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱閣議決定以降、島の石川島航空工業日高工場に動員されていた日高高等女学校3年花組の生徒たちは、45年(昭和20)3月、神奈川県にある同社の横浜工場への転勤を命じられた。

「学校では授業なんか何にもなかったです」80年前の記憶を語る幸子さん

 3月9日、幸子さんらは御坊駅から汽車に乗り込み、家族に見送られて横浜へと出発した。車内は自分たち日高高女の生徒以外は軍服を着た兵隊ばかり。幸子さんは少し緊張の旅となったが、いつしか疲れて眠ってしまい、目が覚めたときは名古屋駅のホームに止まっていた。外は明るく、荷物を抱えた家族らでごった返し、どの人も悲痛な表情を浮かべている。幸子さんは何があったのか分からなかったが、非常事態であるのはすぐに分かった。しばらくすると、前夜にものすごい空襲があったとの話が聞こえてきた。米軍の焼夷弾で家を焼かれたのか、着の身着のままの人たちが次々とホームへ押し寄せていた。

 工場は横浜市の東南、根岸湾に面した磯子区の臨海工業エリアにあった。日高高女の生徒たちは3㌔ほど内陸の港南区上大岡の小さな住宅に2、3人ずつ分かれて住み、そこから汽車に乗って工場へ通ったが、空襲のあとには汽車が不通となり、みんなで歩いて出勤したこともあった。

 幸子さんの花組の同級生には、御坊の塩屋へ疎開していた山本五十六元帥の次女正子さんもいた。正子さんは横浜へ到着後、一緒に工場で仕事をしていたが、途中で東京から母親が迎えに来て帰ってしまった。4月15日の深夜から翌日未明にかけては、延べ200機のB29が工場周辺や川崎市を空襲。5月29日朝にはB29517機、艦載機101機による空襲が行われ、わずか1時間半ほどの間に25万発以上の焼夷弾が横浜市や川崎市に降り注いだ。この無差別爆撃により、約8万軒の住宅が全焼、死者3787人、重軽傷者1万2391人という神奈川県内で最大の被害が出たが、横浜の中心市街地から離れていた幸子さんら日高高女の生徒にけが人は出なかった。その後、6月中旬に帰郷し、また島の石川島航空へ出勤したが、工場の仕事がないまま8月15日を迎えた。

 幸子さんは1958年(昭和33)、28歳で7歳上の川辺町(現日高川町)若野出身の津村錬之助さんと結婚。しばらくして、商店街の旧御坊警察署の向かいに婦人服や学制服を扱う「若野屋」を出店した。真面目で働き者の錬之助さんは、滋賀県の先輩同業者から経営を学び、少しでも安くいい商品を売るため、夜明け前の始発電車に乗って岐阜の問屋まで仕入れに出かけた。その先輩に教えられた「現金正札」をモットーに、開店時から一貫して特別セールはせず、幸子さんも接客のほか、服やズボンの直しにミシンを踏み続けた。

 子どものころから女学校を卒業するまでは戦争一色。いまも横浜といえば、空襲の恐怖に体が震えた学徒動員を思い出す。「戦後10年以上たって、当時の花組のみんなで、横浜の工場があった場所を見に行きました。するとそこは山が削られ、遠浅の海も埋め立てられ、景色がすっかり変わっていたことにびっくりしたのを覚えています」という。

 錬之助さんは10年以上前に他界したが、いまも毎日、店に顔を出し、「お客さんや友達、遊びに来てくれるかわいいひ孫とのおしゃべりが楽しいです」と笑う。あの苦難の時代を生き抜いてきた幸子さんにとって、何もない平穏な日常こそがかけがえのない時間のようだ。