移設された内田灯台長の句碑の前で関係者(左から岡本住職、小薮区長、真部部長、施工の大杉建設㈱の中口伴嘉常務)、右は虚子の句碑

 日高町阿尾の日ノ御埼灯台で20日、昭和の戦争終結前に灯台長を務め、終戦後に妻と2人の娘を病で失った内田十二(じゅうじ)氏(俳号・稲人)が詠んだ句の石碑の移設記念除幕式があり、灯台を所管する田辺海上保安部など、地域の関係者らが出席した。

 美浜町史などの資料によると、内田灯台長は初代日ノ御埼灯台に勤務する傍ら、高浜虚子が主宰する俳誌「ホトトギス」に所属。三尾の法善寺で開かれていたホトトギス派の「藻の花句会」で俳句の腕を高めていた。

 終戦直前の1945年(昭和20)7月、米軍の襲撃により初代日ノ御埼灯台が破壊され、内田灯台長は復旧作業に奔走。灯台が壊れても海の安全を守るため灯し続けた。そのような中で11月、わずか10日間のうちに妻、長女、三女が赤痢により相次いで亡くなり、翌46年2月には三尾の俳人らが法善寺で追悼法要を行った。

 戦後の苦難に直面しても灯台を守り続ける内田灯台長のことを聞いた虚子は、法要の1カ月後、「妻長女三女それぞれ啼く千鳥」の句を書いたはがきを三尾の内田灯台長のもとに送ったとされている。その3年後、転勤のため日ノ御埼灯台を離れることになった内田灯台長は、法善寺で開かれた藻の花句会の送別会で「妻長女三女の千鳥飛んで来よ」という句を詠んだ。

 2人が詠んだ句はその後、地元有志が句碑として建立。虚子の句碑は終戦後建てられた2代目灯台の横に、内田灯台長の句碑は現在の日の岬パークの丘の上に設置された。虚子の句碑は7年前の3代目灯台完成時にすぐそばに移設され、内田灯台長の句碑は長らく移設されず、灯台から見下ろせない位置にあったが、今回の移設により、灯台の下に虚子の句碑と並んで設置されることとなった。

 除幕式では、田辺海上保安部の真部克彦部長が「虚子と内田灯台長の師弟愛の美しさを知ってもらいたい」と話し、小薮清信三尾区長や法善寺の岡本淨(きよし)住職らも祝辞を述べた。この経緯は今後、三尾の新たな観光資源として生かし、灯台を管理するNPO法人日の岬・アメリカ村が語り部活動や案内板の設置などで後世に残していきたいとしている。