「八方睨みの虎」の掛け軸を見たことがある。どこから見ても、見られているように思う。8年前、書店で同じ感覚を味わった。視線を感じてそちらを見ると、元サッカー日本代表監督、イビツァ・オシム氏の鋭い眼光。スポーツ誌「Number」の表紙だ。迷わず購入した◆日韓W杯でサッカーファンになり、06年に日本代表監督に就任したオシム氏のファンになった。報道で知った人柄も、鋭い眼も、いたずらっ子のような笑顔も魅力だった。07年、氏が脳梗塞に倒れ、W杯を前に監督を退任した時は言葉に尽くせない無念を味わった◆旧ユーゴスラビアのボスニア・ヘルツェゴビナ出身。東欧革命で多くの国が民主化したが、旧ユーゴだけは悲しい民族紛争の時代を迎えた。オシム氏の故郷サラエボは激戦地となり、多くの犠牲者が出た。名著「オシムの言葉」(木村元彦、集英社)を読み、オシム氏が内戦のため妻子と離れ離れになったことなど過酷な経歴を知った◆氏の逝去が報じられた今月、木村氏が全国紙に寄せた追悼の一文に震えるような感動を覚えた。ボスニアのサッカー協会は3つの民族に分裂し、国際大会に出場できなかったのだが、オシム氏は不自由な体でセルビア人共和国のドディック大統領に会いに行くなどして調停し、統一に導いた。全ての民族が、厳しく温かく、何より公正な氏を敬愛していた故だろう。木村氏は大統領から「オシムが来たら、私は首を縦に振るしかない」の言葉を聞いた。「信を置ける人物がいれば、戦争は外交で止められるではないかと痺れた」との木村氏の記述に、それこそ痺れる思いだった◆かつての東欧の状況は、現在の世界状況に連なる。オシム氏の公明正大な鋭い眼差しを指針とする思いで、世界の変化を見守り続けようと思う。(里)