御坊市の財部会館で16日、古民家コミュニティ主催の地域の歴史や文化を学ぶ講座「日高郷土学」が開かれ、和歌山高専教授(総合教育)の重松正史氏(63)が「紀勢線(御坊~印南駅)線路湾曲の謎」と題し、御坊駅が現在の位置につくられ、紀勢線の路線が和佐、稲原経由になった経緯について話した。
 紀勢線が御坊駅から大きくカーブした経緯については、地元では「稲原村出身の有力県議会議員の力による」という話をよく耳にする。重松教授は、「一県議会議員に鉄道の路線を決定できるほどの力があったとは思えない」と、過去の路線をめぐる政治的な動きを報じた新聞記事などを調べた結果、当時はセットとなっていた電気と鉄道の事業をめぐるさまざまな争いがあったことが分かったという。
 明治末期から大正初期にかけて、和歌山県内は南海が紀南地方まで鉄道を伸ばし、同時に日高川の水力発電拡大を計画していた。当時、日高川では和歌山水力電気という会社(和水電)があり、南海はこれを吸収しようとしたが、和歌山市出身の岡崎邦輔(陸奥宗光のいとこでのちの農林大臣)が社長だった京阪電鉄がこれに対抗。結局、和水電は京阪が合併した。
 日高川で水力発電を拡大するには、御坊まで木材を筏流しで運搬していた林業者の賛同をとりつけねばならない。岡崎は当時の最大政党政友会(自民党の前身)の県議らを取り込み、国鉄新線(紀勢線)敷設計画に絡んで御坊駅を市街地より北側に置き、さらに少しでも日高川奥地に近い和佐、稲原に駅をつくり、道路を整備することで日高川流域の経済、観光発展につなげる構想を進め、重松教授は「その結果、鉄道が湾曲してつくられたのではないか。御坊~印南間のカーブは1人の県議の力だけでなく、背景に関西電鉄の勢力争いがあり、岡崎率いる京阪を中心としたグループが事態を動かしていたのでしょう」と考察した。