民間災害ボランティア団体、紀州梅の郷救助隊(尾﨑剛通隊長)は25日、みなべ町保健福祉センターで「東日本大震災の体験を聞く会」を開催。宮城県気仙沼市の被災者らとパネルディスカッションが行われ、未曾有の大震災の体験者たちは「津波はとにかく逃げることが大事。命があることがどれだけ素晴らしいか」と訴えた。
 紀州梅の郷救助隊は平成7年の阪神大震災をきっかけに発足。結成20年の節目として、町自主防災連会絡協議会との共催で開催した。
 救助隊は震災の発生当時から気仙沼市で復旧活動を行い、以後も被災者らとの交流を続けている。パネルディスカッションのテーマは「南海トラフ地震に備えて~宮城県気仙沼の人に聞く~」。同市からのパネリストは、避難所となった浄念寺の高橋一世住職(47)、津波で夫を亡くした小林秋子さん(77)、常念寺でボランティアを行った畠山恵美子さん(55)。救助隊からは、阪本順史さん(52)=御坊市名田町=、坂本恭子さん(58)=みなべ町東本庄=、宮本一輝さん(20)=御坊市名田町=がパネリストを務めた。進行は尾﨑隊長。夫を亡くした小林さんは「津波で台所まで水が来て逃げ場がなくなり、『助けて お父さん』と叫びながら2階に上がった。その後、家の中の水が引くと、廊下で夫が亡くなっていた。その夫を残して逃げるのが一番つらかった」と振り返り、「救助隊の皆さんが来てくれた時には『どうしても夫を探してほしい』と頼んだ。遺骨の一部が見つかった時は、言葉で言い表すことができないほどうれしかった」と語った。畠山さんは「津波の時には逃げずに海の方にいった人もいたし、一度避難しても、また家に戻った人もいた。『津波の時はどうするのか』、事前に家族で考えてもらいたい。自分の命は自分で守るということが大事」と訴えた。高橋さんは「みなべ町の人たちに気持ちを寄せていただき、本当にありがたい」と感謝の気持ちを伝え、「命があって家族が戻りさえすれば、物がなくても希望が持てる」と述べた。救助隊の阪本さんは「捜索活動に参加したが、想像を絶する状態だった」、炊き出し活動を行った坂本さんは「現地の人に受け入れてもらえるか心配だったが、笑顔で迎えてくれた。気持ちが触れ合えるひとときを過ごし、逆に温かさをもらった」、高校を卒業した平成25年から1年間にわたって気仙沼市で子どもたちに学習支援活動を行った宮本さんは、「卒業式が終わった夜に気仙沼市へ向かった。復興に対して何もできていないと感じたこともあったが、現地の人から『1年間を気仙沼で過ごした宮本君がこれからの社会を引っ張ってほしい』という言葉をいただいた」と述べた。
 20周年の式典では尾﨑隊長が「地域の人たちから物資の提供や経済的支援など応援をいただき、ここまでやってこれた。南海トラフ地震の被害も予想されているが、今後もできる範囲で精いっぱいやっていきたい」、自主防災会連絡協議会の中本光一会長は「防災の基本はまず逃げること。そして家族や地域を守ってもらいたい」と述べた。
 同隊の最初の出動は、平成9年に島根県で発生したロシア船籍タンカー「ナホトカ号」の重油流出事故。以後、中越地震(平成16年)、能登半島地震(19年)、中越沖地震(同)、防府市土砂災害(21年)、作用町水害(同)、奄美大島の集中豪雨(22年)など多くの災害被災地に出動している。