神奈川県川崎市で中学1年生の男子生徒が殺害された事件には、多くの人が怒りを覚えただろう。逮捕された主犯格の男は18歳。報道されているように、何の落ち度もない5歳も年下の男の子を暴力で支配し、挙げ句の果てに惨殺したとされていることが真実であるなら、人間性のかけらもない。犯行に至るまでの経緯、人を殺める人格がどのように生まれてしまったのか、どのような幼少期を過ごしてきたのか、同じような事件が起こらないためにもしっかりと明らかにすることが重要。その意味でも裁判の果たす役割は大きいが、最近はその裁判自体にも首を傾げてしまうことがある。
 先日、2009年に千葉県松戸市で起こった女子大生強盗殺人事件で、最高裁が、裁判員裁判で死刑とした判決を破棄した高裁の判決を支持した。裁判員の方々が悩みに悩んで導き出した答えをくつがえした。理由が「殺害されたのは1人で、計画性もない」とこれまでの判例基準に則したところが理解できない。裁判員裁判は、「住民感覚を裁判に取り入れる」というのが理由の一つだった。犯人は別事件で服役し出所してわずか1カ月半後に犯行に及んでいた。死刑の選択もやむを得ないと思うのが住民感情だと思うが。
 昨年3月、和歌山地裁で行われた御坊駅前の旅館経営女性殺人事件の裁判を傍聴したときも消化不良だったのを覚えている。被告が罪状を認めていることを理由に、焦点は量刑だった。なぜ女性は殺されなければならなかったのか、筆者が納得できる答えは出なかった。裁判では何を明らかにすべきなのか、あらためて考えよう。裁判とは、量刑を判断するためだけのものではないだろう。   (片)