「ああ、時は宝永四年十月、大地震が数回あって山が崩れ地は砕け、男も女も正気を失ったところに山のような津波がでこぼことなって打ち寄せて来て家財道具はたちまちに流されゆくえ知れずになった。誰も彼もが波にさらわれ漂い溺れ、哀れだった。親子兄弟はあっという間に離ればなれになり、流されて死んだ老若男女は一六二人...」。いまから300年以上前の1707年に発生した宝永南海地震で印南町を襲った津波の惨状を記したものだ。宝永地震の記念碑は全国的に少ないが、印南町印南の印定寺にはいまも墓碑と犠牲者の戒名を書いた位牌が現存している。おかげで津波の恐ろしさは語り継がれ、147年後の安政南海地震では町内で津波の犠牲になった人はゼロだった。
 この話を初めて聞いたのは10年ほど前だったろうか。当時の消防関係者に教えてもらうまで、すぐ近くの印南小学校に通っていた筆者も聞いたことはなかった。去る26日、印南町がこの墓碑と位牌の存在と教訓を知ってもらおうと、印定寺山門前に看板を設置し、除幕式が行われた。世代を超えて語り継ぐため中学生が招待されたことは意義深い。
 安政地震のあと、教訓は伝承されず昭和21年に起こった昭和南海地震では16人の犠牲者を出した。再び伝承がスタートしたことは、いつか必ず起こるといわれる次の南海地震で犠牲者を出さないための大きな一歩となるだろう。ただ、看板を作ったことを目的にしてはいけない。多くの町民に広げていくには、町内の学校教育に取り入れていくことが必要だろう。300年前のノンフィクションを地域のオリジナル教材としてぜひ活用してほしい。    (片)