20130813戦争前田2.jpg故郷を出発する直前、16歳の前田さん
 「大和乗り組みを命ずる」。昭和17年12月、前田繁蔵さん(87)が辞令を受けたとき、まだ17歳になったばかりだった。戦艦大和は大東亜戦争(太平洋戦争)開戦から8日後の昭和16年12月16日に就航。当時の日本の最高技術を結集して建造、史上最大の46㌢主砲を備えた最強の不沈艦とされ、乗組員はみんなの憧れの的だった。「ほんまに大和に乗れるんや」、前田さんは何の不安もなく心は弾むばかりだった。それから丸2年間、大和とともに壮絶な戦いを体験することになる。
 大正14年12月13日、常吉さんとイシエさんの長男として旧南部町埴田で誕生。大東亜戦争が始まったときは15歳だった。「日本を守るために戦う」と当たり前に思っていた前田さんは昭和17年2月14日、海軍に甲種合格。陸軍にも合格していたが、迷った末に憧れだった海軍を選んだ。陸軍辞退の手続きに時間がかかり、故郷を出発したのは8月末。16歳、まだあどけなさが残る顔、胸には「和歌山縣日髙郡南部町」のたすきをかけ、町長からの訓示、多くの町民に見送られながら南部駅までパレードした。当時はまだ志願兵が少ないときだったが、「何の迷いもありませんでした」。汽車に揺られ、大阪からは志願兵ばかりが乗った軍用列車に乗り換え、広島県呉市に到着。海軍大竹海兵団第14分隊六教班に入団した。約4カ月間、汗と泥にまみれる新兵教育をみっちり叩き込まれ、射撃をはじめ成績優秀、愛国心に燃える前田さんが、大和乗り組みの命を受けることになった。
 当時、大和は連合艦隊の旗艦で、山本五十六連合艦隊司令長官が乗艦。17年8月7日、ガダルカナル島の戦いの勃発を受け、17日には南方ソロモン方面の支援のため日本を発っていた。前田さんが乗り組みの命を受けたとき、大和は現在のミクロネシアにあるチューク諸島トラック島に停泊。年末、軍用艦に乗り込み10日ほどかけてトラック島に無事たどり着き、大和を初めて目の当たりにした。見とれている暇はなく、内心は心を躍らせながら全長263㍍、世界最大の戦艦に乗艦した。「とにかく広い。乗り込んですぐに艦内を見て回るんですが、迷子になる奴もいましたよ。私はそんなことはありませんでしたが」。すぐに配属が決まり、右舷12.7㌢高角砲が持ち場となった。
 大和でも実践訓練に明け暮れる毎日。血気盛んな男たちが2000人余り、ムンムンと立ち込める熱気、ときには意見の衝突で仲間同士がぶつかることもあった。1人がミスをすると、連帯責任で全員が尻をたたかれ、腫れ上がったことは何度もある。「休みなんてほとんどありません。海軍に入ったからには『月、月、火、水、木、金、金』ですよ。歌にしてみんなでうたいもしました」。唯一、気が休まるのは就寝のとき。大和には売店があり、勉強熱心な前田さんはライトを買って、布団の中で本を読んだりした。上官にもかわいがられ、乗り込んで1カ月もすれば身の回りの世話をする従兵になった。担当したのは、軍医だった祖父江逸郎(そふえ・いつろう)さん。名古屋大学教授などを歴任した人で、いまでも交流がある。従兵にも位があり、上級者に「手伝ってくれ」と呼ばれることもたまにあり、山本長官の部屋の掃除をしたこともある。それほど広くはなかったと記憶しているが、テーブルやいすが整然と並べられていた。掃除するとき、いつも部屋にいなかったが、その日はなんと長官の姿があった。
20130813戦争前田.jpg当時の写真を見つめながら振り返る前田さん
 何人かで掃除をしたが、いつも以上に緊張していた前田さんに山本長官が近づいてきて、そっと頭をなでてくれた。とくに言葉はなかったが、「頑張れよっていってくれたのだと思う。うれしかった」。優しい手の感触はいまでも残っている。
 18年12月、大和は横須賀から陸軍連隊と軍需品をトラック島へ輸送する作戦、19年6月にはマリアナ沖海戦などに参加するも、大和自体は目立った交戦のないまま日本に戻り、7月には陸軍将兵や物資を載せてシンガポールへ向かい、リンガ泊地で3カ月ほど訓練。そして、いよいよ激戦のレイテ沖海戦に参加することになる。
 19年10月、米軍はフィリピンのレイテ島に上陸した。日本海軍は4つの部隊からなるレイテ島攻撃作戦を発動。航空部隊がおとりとなって敵主力を北方へ誘い出し、大和をはじめ戦艦群をレイテ湾に突入させて砲撃するのが作戦だ。大和は武蔵などとともに22日にブルネイを出撃。戦闘機の援護ゼロの中、米軍との交戦は23日から25日にかけて断続的に続いた。
 前田さんが持ち場の12.7㌢高角砲は、艦のちょうど真ん中辺り、大和の指揮室がそびえる付け根付近で、広さは6畳ほど。そこに直径12.7㌢、重さ30㌔の砲弾を2発発射する砲塔が備えられている。仲間は12人。引き金を引く射手、砲塔を上下左右に回す旋回手、指揮所から状況を伝え聞く伝令、砲弾を破裂させるタイマーをセットする信管手が各1人、砲弾を運ぶ者8人。前田さんは引き金を引く射手が担当だった。敵からの機銃を防ぐシールドはなく、目の前まで突っ込んでくる戦闘機の操縦士の顔まではっきり見えた。23日、レイテ湾へ向けて進撃中に米潜水艦に発見されて雷撃を受け、重巡洋艦「愛宕」などが沈没するのを目の当たりにした。24日、シブヤン海を進撃中に偵察機に見つかり、米戦闘機との激しい戦闘が始まった。大和は敵の第3次、第4次攻撃で爆弾が命中。戦闘機からの激しい機銃も受け続ける中、前田さんは射手として必死で引き金を引き続けた。敵機を撃墜もしたが、一度に20~30機、猛烈な機銃攻撃を受けて目の前で撃たれた仲間が次々と倒れていった。銃弾は前田さんにも容赦なく襲い掛かり、後方から跳ね返った弾が背中に向けて飛び、一瞬、激痛が走ったがかぶっていると重くて邪魔なため、背中でたすき掛けしていたヘルメットに当たり、九死に一生を得た。「死ぬのが怖いなんて少しも思ったことはなかったし、お父さんやお母さんのことも考えなかった。ここで負けたら日本がどうなるかという思いしかなかった」。激しい攻撃、激しいスコール、戦闘は25日まで続き、前田さんは3日間持ち場を離れることはなかった。大和はレイテ湾を目前に突入を断念(いまでも「謎の反転」といわれる)。引き返す途中にも米軍と交戦、乗組員、艦体とも大きな被害を受けながらも28日にブルネイに到着した。シブヤン海での戦闘で武蔵が沈没。レイテ沖海戦で連合艦隊は事実上壊滅した。
 日本へ戻り、年が明けた20年1月、前田さんらは「もう一度勉強してこい」といきなり大和を下ろされた。「最後まで(運命を)大和とともにする」と拒否したが、「次の出撃にはまた戻す」との言葉を信じた。「いま思えば家を継がなければならない長男が下ろされたんだと思います」。大和は4月7日、沖縄への海上特攻への途中、米軍の集中爆撃を受けて鹿児島県坊ノ岬沖でついに沈没した。
 前田さんは大和を下りたあと呉市郊外の陸戦隊に配属。8月6日、広島市と呉市のほぼ中間地点の丘の中腹にいたとき、原爆が投下された。「黒い物を落とすのは見えた。すさまじい爆風で、爆弾が火薬庫を直撃したと思った」。原子爆弾だと聞いたのは数時間後。ぼろぼろの体で避難する人々、まさに地獄のような光景で、支援にも当たった。終戦後、満州、台湾、シンガポール、スマトラ、ソ連などを駆逐艦で復員輸送に回り、引き揚げ隊を日本に帰す任務に2年間従事した。ソ連から引き揚げる人たちの姿は言葉にならないくらい悲惨だったこと、台湾では「日本人がいなくなると困る。つれて帰らないで」と反対されたことをいまでも覚えている。
 原爆症を発症したのは引き揚げが終わった直後。髪の毛は抜け落ち、高熱で半年うなされっぱなしで、生死の境をさまよった。奇跡的に快復してからは前田酒店を創業し、いまも現役で働いている。「教育の恐ろしさというのでしょうか、戦争で国のために戦うのが当たり前だと本気で思っていた」と振り返り、平和な世の中を歓迎しながら「仲間が大勢亡くなった。戦争で死んでいった方々に慰霊の心を持ってほしい」と静かに語った。